第2話

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第2話

 10月。秋晴れ。海沿いの国道を車で走らせる。  太陽の光を浴びている海の波は、きらきらと輝いている。車の窓を開ける。潮の香り。それを吸い込むと、私の胸は柔らかい懐かしい優しさで一杯になった。  健人と付き合い始めた4年前にデートした場所――植物園に着いたのは、14時を少しまわったところ。  最初に入った温室には、沢山の種類のサボテン――背の高いものや、和太鼓のように丸く大きいもの、アイスクリームスクープですくったような小さなものも可愛く配置されていた。  次に入った温室は熱帯雨林の設定だ。ジャングル。バナナの木や小さな滝。ギザギザの葉っぱや大きな扇子のような葉っぱをつけた木が、ところせましと並んでいる。色濃い緑色の中を、ゆっくりと一人で歩いた。健人との思い出が次から次へと浮かんでは消えた。  「美希のつくる味噌汁は最高だよ」  「美希は一緒にいて本当に楽だ」  家事をしている私をふいに後ろからよく抱きしめ、健人はそんなことを耳元で囁いた。3年目過ぎた頃からは、例えばそれが朝帰りした日であっても……。  その度に、彼にとって私は彼女ではなく、港のようなもので、今はただの休むところなのかもしれない。それで良いんだ、なんて思おうとした。  だって健人が言う「君は結婚するなら最高さ」は、私にとっては優しくて甘くて……。だから迷った。迷ってる。まだ。今の健人の言動に信頼できる要素なんてちっともないのに……。  それに……。  4年一緒にいた人と別れるのって、なんだか身を剥がすような痛みがある。彼は、私の一部になっている。そんな気がするんだもの。  温室を出て観葉植物を販売しているショップに入ると、すぐに鉢植えされた薄い緑色のポトスが目に入った。白い鉢植えに、沢山葉をつけたポトス。それをソファーの隣にあるサイドデスクの上に飾ったら素敵だろうな、とイメージできた。購入しようと手を伸ばし、ポトスの説明書きを読んだ。 『ポトス……花言葉:長い幸・華やかな明るさ・豊かな富』  ドキリとした。自分の求めていたものが言葉になっていたから。  そう。長い幸を求めていた。それから華やかな明るさ。それは子供の笑い声のある家庭。私はちゃんと健人の好き嫌いを把握ているから明るいストレスのない家庭を築けるって想像していた。豊かな富。健人は上司に好かれているから順調に昇進するだろうって想像していた。健人のお父さんは投資家で、いつか家賃収入でも暮らせるようにしたらいいって。そのために将来サポートしてくれるとも言ってたから。でも、一番求めているのは長い幸。そうだ。そう。長くじっくりとちゃんと付き合える関係を私は欲している。長く続く幸せ。例えば、永遠に続く愛みたいなもの。  そんな風に考えながら、ポトスを手に取りレジカウンターに置いた。 「もしかして……美希?」  ふいに声をかけられ驚いて顔を上げると、レジの店員さんは中学の同級生――理沙だった。理沙は、ほんの少し大人の雰囲気を身にまとっているだけで、あの頃とさほど変わっていなかった。  お互いびっくりした理沙と私は、ほぼ同時に「え? 何? ここで働いてんの?」「え? 何? この辺に住んでるの?」と言うもんだから会話が続かなくて、二人一拍黙ってから顔を見合わせて笑った。 「うん。今日はたまたま。一人で気晴らし。海沿いをドライブしたくて……」 「そっかぁ~。私、去年からここで働いてるの。ねえ、今度食事とか行こうよ!」  理沙は明るく真っ直ぐ私を誘った。すぐにラインアドレスを交換したけど、仕事中だからと、短く挨拶し別れた。  たったそれだけなのに、私はドキドキしていた。理沙の明るさが私を照らして私の心の暗さが如実に現れたような……。あるいは小さな頃に大人に叱られる前の切迫感みたいな……。わかっているのにやっていないとか、失敗や間違いを犯している真っ最中だということへの気付きが迫ってくるような緊張感に、全身が包まれていた。  ここから早く離れたいと思った。  入ったばかりの植物園をあとにした。  車に戻り、ポトスを助手席に置いて、エンジンをかけまた海沿いを走る。車窓から見える穏やかな海は、まだきらきらと輝いている。眩しい。  エンジン音だけ響く静かな車内。理沙との思い出が巡った。    理沙は、中学3年生の時に転校してきた可愛らしい子で、だけど暗い表情をしていたから、心配で話しかけた。  理沙と私は、すぐに仲良くなった。毎日、二人でお昼休みに話し込むようになり、理沙は、お兄さんの話を沢山してくれた。  理沙のお兄さんは、まるでおとぎ話に出てくる王子様のように、優しく誠実で賢い人で、家族の誰もが彼のことを好きだったそうだ。そのお兄さんを、バイクの事故で亡くしたばかりだと打ち明けてくれた。その辛さを忘れるために、家族が引越しをし、理沙は転校することになったらしい。  理沙はそれから数カ月の間に、少しずつ明るさを取り戻していった。明るくなると、彼女の友人関係が変わった。理沙は、私とはあまり関わりのないグループ――クラスで目立っているおしゃれな子達の輪に入った。そしたら距離ができた。二人で会ったり、話すことはなくなった。けれど私は、距離が出来たことは気にしていなかった。そうやって、友人との距離が自然と遠くなったり、近くなったりすることは当たり前のことだと思っていたし……。そして何よりも、理沙が教室で冗談を言って、きゃはきゃはと笑っている姿を見て、ほっとした。転校した先で、「うまくやれている」のを見届けた感じがした。  そんなある日の放課後、理沙が一人でいるのを見つけて話しかけた。なるべく小さな声で。  「亡くなったお兄さんの話を沢山聞いたから……。笑っている理沙を見れるようになって、ちょとホッとしてる」 すると理沙は、 「え? 私、そんなこと……、お兄ちゃんのこと話したの!?」  と言った。驚かれたことに驚いてしまって、理沙がウソをついているのか、そんなに私と関わりたくないのか、私は嫌われているのか、と、疑った。今思えば、あれは、辛い経験のあとの、一時的な記憶の喪失かもしれない。  さっきの偶然の再会で、すぐにくれた理沙の笑顔や、すぐに誘ってくれた声のトーンを思い出して、あの頃に抱いた疑いや、もやもやしたものが消えていった。  「嫌われているわけではなかったんだ……」  どこか身体の中にあった古い緊張が緩み、ほわっとあたたかい光が心に差した。未完了が、完了した。そんな感覚。 「そうか……。納得しないと、心のエネルギーが途切れるんだ……」  急にそう思った。  臆病な私は、他人の真意を納得するまで尋ねることができない。自分の本音も打ち明けることができない。今も昔も。 「どちらにしろ、人生で正解なんて分からないんだから。せめて、納得する答えを出さないと……」  アクセルを踏みこみ、スピードを上げた。
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