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雪ん子
駅舎を出ると雪は止んでいた。一年ぶりの故郷だった。路面は踏み固められた雪が夜気でがちがちに凍って、気を抜くと滑って転びそうになる。真彦はなるべく道の端、あまり踏まれていないあたりを選んで歩いた。そうすれば滑らないが、足が雪に埋まってしまうのは我慢しなければならない。雪国用の靴ではないから、家へ着くまでに靴下は重く水を含んでしまうだろう。
ひと足早い休暇だった。十二月のはじめだが、年末年始の当直を引き受けた代わりの休みだ。八歳になる娘へのプレゼントを入れた紙袋を提げて、あたりまえなら心躍る帰宅のはずだった。だが心は躍るどころか、足が雪にめり込むたびに苦渋がそこから這い上がってくる。
プレゼントの紙袋とは裏腹に、スーツの内ポケットには離婚届が入っていた。自己の署名捺印は済んでいる。娘を見るのはこれが最後だという思いが、ひと足ごとに胸に募っていた。
赴任先で部下の女性と深い仲になったのは一年前のことだ。妻がそのことを知ったのが半年前のこと。妻は部下の女性の名を口にした。知っているの、とだけ言った。詰りはしなかった。それが最後の電話で、それきり連絡はない。今日の帰宅はメールで知らせてあるが、返信はなかった。新しい生活のために、一方的に家庭を捨てに来たのだ。
線路沿いの道を歩いてゆく。空気は鋭く張りつめて頬に爪をたてた。凍てつく夜更けに人の姿はない。街灯が彼の影だけを白い通りに落としている。
線路のむこう側に真彦が出た小学校が見えた。二階の端に見える窓が、二年生のときの教室だった。その冬。土曜日の午後。数人の新聞委員が居残って壁新聞を作っていた。そのときに、あの窓の教室で〈雪ん子〉に出逢ったのだ。
机と椅子を寄せて床にスペースをとり、そこに大判の紙を拡げ、這いつくばるようにして新聞を作っていた。マジックペンの臭いがたちこめ、ストーブの火が黄昏めいた色を漂わせて、線路に向いた窓からは降りしきる雪を通り抜けてミルクのような光が射していた。
新聞はもうちょっとで完成だった。真彦は友だちと交代して立ち上がり、窓枠に手をかけてガラス越しに空を見上げた。視野いっぱいに渦を巻いて雪が舞い降りてくる。じっとそれを見つめていると、躰がすうっと持ち上がり天に向かって昇っていくような気がする。この発見は幼い真彦を夢中にした。彼ひとり教室の窓ガラスをくぐり抜け、空のかなたへ飛んでゆくのだ。一心に雪の落下を見つめてぐんぐん上昇を続けながら、このままどこへ行くのだろうと思った。いちばん上まで昇ったら、雪を降らせる国があるんだろうか? きっとそこには、おばあちゃんが話してくれた〈雪ん子〉がいるんだ。白い羽でできた服を着て踊って、服から落ちた羽が雪に変わるんだ。
雪ん子は、どれくらい雪が積もったか見るために、ときどき空から下界へ降りてくるという。子供らが雪遊びをするのに足りなければ空の上で踊り続けるし、家を押し潰しそうになるほど積もり過ぎていれば踊りをやめて眠りにつく――おばあちゃんは炬燵でみかんの皮をむきながら、真彦にそんな話を聞かせてくれた。
「空から降りてきた雪ん子を見たもんには、いいことがあるんよ。でも、けしていじめたりして怒らせたらなんねえよ。怒ったらなあ、雪ん子は踊って踊って踊り続けて、その年は大雪になっちまう。春が来るのがずっと遅れてしまうんだよ」
「雪ん子って、どんな顔してる?」
「かわいい女の子だよ。色が白くてなあ。白い羽の着ものを着ているよ」
おばあちゃんの言葉を思い浮かべながら、真彦の躰は上へ上へと飛んでゆく。と、突然怖くなった。このままどこか別の世界へ行ってしまって、元へ戻れなくなるんじゃないだろうか?
真彦はあわててふり向いた。すると教室がそこにあった。みんなの姿はなかった。床の上に拡がった新聞はでき上がっていた。みんなは、もう帰るからと教員室へ言いに行ったのか、それとも体育館で遊んでいるのだろう。〈飛ぶ〉ことに夢中になっていたから、出て行くのに気づかなかったのだ。
そのとき、教室の戸が開いて、そこから冷たい風が吹き込んできた。見たことのない女の子が、うす暗くなった廊下から教室の中をのぞいている。真彦と同い歳くらいで、白いふかふかしたコートを着ている。フードが半分だけ頭にかかり、そこから丸い頬に沿って流れるように柔らかな髪がこぼれていた。女の子は中へ入ってきた。コートについていた雪がこぼれ落ちた。真彦には、その雪がコートのふかふかの中から産み落とされたように見えた。
雪ん子! ごくりと唾をのみ込んだ。
女の子は、ふう、と息をついた。
距離があるにもかかわらず、頬に温かさを感じた。
床の新聞を見下ろし、
「このマンガ、きみが描いたの?」と、挿絵を指さして訊いた。
真彦が頷くと、笑窪を見せてにっこり笑った。
「上手だね」そう言って、くるりと身をひるがえし、廊下へ出ていった。
真彦は何も言わずに見送った。怒らせたら大雪になると聞かされていたから、喋ることが怖かったのだ。
女の子は、この小学校の生徒ではなかった。たぶん生徒のいとことか、先生の子供とかで、たまたま来ていただけなのだろう。後になって考えてみればそんなふうに納得のいくことだったが、そのときの真彦は、見たことのない女の子を雪ん子だと思い込んだのだ。その子の笑窪と深い色の瞳は、それから長い間、心の裡にとどまっていた。
雪ん子を見ていいことがあったかどうかは覚えていない。こうして、いつの間にか大人になっている。線路のむこうに見える校舎の窓の中にいた自分と今の自分とが、まったく違ってしまったようにも、少しも変わっていないようにも、どちらにも思えた。それは不思議な感情だった。
小学校の先には小高い山があり、麓の林も雪をかぶっている。夏の夕。そこで抱き合う男女がいると、ませた友だちに連れられて林の奥へ足を忍ばせたことがあった。着衣のままだが隠れてまさぐり合う男女がひどく穢く見え、真彦は二度とついて行かなかった。そのことを思い返して苦笑した。隠れて抱き合っている今の自分は、やっぱり違ってしまったのだ。
部下の女性は、頬に逆三角のシミがある。巧みな化粧に覆われて、気づくのは稀だったが。あの頬を欲しがる自分と、フードからのぞいた雪ん子の白い頬に見とれた少年は、まったく違ってしまった――
妻には化粧の記憶があまりない。たまに口紅を曳くくらいだ。生活に流されているうちに、いつのまにか女性から家族に昇華していた。
雪がちらちら舞いはじめている。次の角を曲がると、我が家が見えた。真彦は立ち止まって空を見上げた。近くのビルにある広告塔の照明が夜空に拡散して、舞い落ちる雪を白い花のように漆黒の中から浮き上がらせている。見る間に雪は密度を増し、闇を紫に希釈しながら覆いかぶさってくる。羽毛のように頬や唇に舞い降りて、たちまち溶け去ってゆく。
まだ、飛べるだろうか? ふいにそんな思いがこみ上げてきた。――あの、少年の日のように。
顔を上げ、じっと雪の落下を見つめた。子供の頃に比べたら、ずいぶん時間がかかった。それでも、ようやく、ふわりと躰は浮揚した。宙を飛び、すばらしい世界に向かって加速する。昔は、どこかへ行ってしまうのが怖くなって途中で引き返してしまった。でも今は、別の世界へ行ってみたい。憧れだけで昂揚した幼い国へ舞い戻ってみたい――
やがて急な失速がきた。雪が止みはじめたのだ。上昇から停止。躰は重みを増しながら、ゆっくりと降下した。そして足の下に、彼が棲む世界の地面を感じた。
ふう。息をつき、顔を下界に戻した。すると、雪明かりの中に白い小さな影が佇んでいた。
雪ん子? ふいに意識は三十年ちかく逆戻りして、うす暗い教室の光景に重なった。あのときの女の子とそっくりな深い瞳が、真彦の驚いた顔を見上げている。同じ笑窪で笑っている。
「どうしたの? おとうさん」
「え?」
白いオーバーコートのフードまでかぶっていたから、それが自分の娘とはすぐに気づかなかった。
「可奈子か。大きくなったな、わからなかったよ。一年ぶりだものな。まだ起きてたのか?」
「何を見てたの?」娘も空を見上げた。口元に白い息が踊った。
距離があるにもかかわらず、頬に温かさを感じた。
「何でもないよ」頭をなでながら、ここにいたのか、という思いが強く胸に拡がった。一度逢ったきりの雪ん子を、無意識の裡にずっと捜し続けていた。
自宅の門のあたりから中へ引っ込む人の姿が見えた。妻が、父親のもとへ行く可奈子をそこで見守っていたのだろう。
娘は父の手を引いて、早く早くと家へ急かす。ふり返りながら、
「おかあさん、ケーキ作って待ってたんだよ。こんな大きなの」片腕で輪を作って見せた。「わたしもイチゴ並べるの手伝ったんだよ。早く見て!」
真彦は娘の手を離し、内ポケットに忍ばせていたものを格子の間から側溝へ落とした。はしゃいで笑う可奈子の後を足早に追う。雪ん子を見たもんには、いいことがあるんよ――おばあちゃんの言葉をかみしめている。
ひと足早いクリスマスが待つ家は雪をすっぽりかぶり、ケーキの上に載ったお菓子の家のようだ。
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