ターニングアスパラ

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ターニングアスパラ

   トイレを済ませて、顔を洗って、洗面台の鏡の前で最終チェックをする。  ネクタイも曲がってない。髪型も変じゃない。スーツにシワもない、はず。たぶん。  今は肩くらいまでしか見えないけど、部屋で何度も確認したし!  うん。かっこいいぞ、俺。……たぶん。  いやいや、弱気になってどうする。こういうのは思い込みが肝心だ。 「よしっ!」  気合を入れ直すように手のひらで二、三度両頬を叩いてから、「おはよ」と隣のダイニングを覗くと、キッチンでフライパンを動かしながら母が振り返った。  食欲をそそる音と、朝ごはんの匂いがする。 「あら、めずらしくかっこいいじゃない」 「そこは、『めずらしく』じゃなくて、『いつもかっこいいわね』だろ?」  茶化しながらも、実はちょっぴり嬉しかった。女性の言葉は自信になる。 「おう、アキ。ちゃんと寝られたか?」  新聞をめくりながら尋ねてきた父に、「バッチリ!」と笑顔で返して食卓につく。湯気を立ちのぼらせる白米とつやつやの目玉焼きが、妙にお行儀よく俺ーー明彦(あきひこ)を待ち構えていた。  スーツ、汚さないようにしないとな。  用心深くそんなことを考えながら両手を合わせたとき、母がフライパンを片手にやってきて、 「はい」  目玉焼きの傍らに、もう一品加える。  薄ピンクのドレスを纏った、スレンダーな緑色。今日は――アスパラのベーコン巻き。 「おー、これこれ」  カツ丼でもウインナーでもなく、このアスパラこそが、我が家のゲン担ぎ食材なのだ。  ご飯も目玉焼きもそっちのけで、真っ先に箸を伸ばす。さて、さっそく―― 「あっつ!」  危うく火傷しそうになり、何度か息を吹きかけてからあらためてかじれば、アスパラが小気味よい音を立てて、ベーコンのほどよい塩気が口の中に広がった。  母は「あわてすぎよ」とおかしそうにころころ笑っている。  ガーデニングや家庭菜園が趣味である母は、花や野菜について、人より少しばかり詳しい。  なんでも、アスパラの花言葉には、「私が勝つ」「敵を除く」「普遍」など、勝利や変わらない日常を願うものがたくさんあるそうだ。だから、いつも通り自分らしく堂々としていられるようにと、俺の大事な日の朝食や昼の弁当には決まって、母が丹精込めて育てたアスパラが彩りを添えた。  小学校の運動会のときも、中学の剣道の試合のときも、高校受験のときも、就職面接のときも、俺を支えてくれたのはいつもアスパラだった。  ベーコン巻きが肉巻きになったり、サラダやスープに入っていたり。その時々によって形は違うけれど、どこか素朴な味わいと、向けられる愛情の大きさは変わらない。  いつだったか母が「ほんのり黄緑色でね、ちっちゃなベルみたいな、かわいい花を咲かせるのよ」と微笑み交じりに話していたのを覚えている。安易な語呂合わせでなく、花言葉に願掛けするあたりも、なんだか母らしいなと思う。  俺は食べてばかりで、実際に花を見たことはないけれど……  あっという間にアスパラを平らげて、目玉焼きをご飯にのせて箸を入れ、とろんと鮮やかな黄身があふれだしたとき、 「お昼、()里香(りか)ちゃんと食べるんでしょ?」  母の言葉に、忘れかけていた緊張感が胸を重くする。  そう。今日は人生で最も大事な日。中学の都大会よりも、高校の後期選抜よりも、はるかに。  高校の同級生である優里香とは、高3の終わりから付き合い始めて約6年になる。おしとやかで、ゆるふわロングの栗毛がかわいい、自慢の彼女だ。  大学時代は一時的に遠距離になり、破局の危機に陥ったりもしたが、どうにかこうにか乗り越えて、先日ようやくプロポーズまでこぎつけた。今日は、彼女のご両親に結婚の挨拶に行くのだ。  そういえば、アスパラの花言葉、「耐える恋」なんていうのもあったような。まるで俺たちみたいだな。  今まで、母のアスパラを食べた日は、理想的な結末を迎えられずとも、必ず何かしらの成果を得られている。剣道の都大会では一回戦を突破できたし、高校、大学と、第一志望に合格できた。  この後は優里香と最寄り駅で待ち合わせ、ふたりで昼食をとりながら簡単な打ち合わせをすることになっている。今日も頼んだぞ、アスパラ。 「今は軽く済ませておきなさいね。少なめにしておいたけど」 「うん」  母の忠告にうなずきながら、思った。言われてみれば、今日は普段より寂しい気がする。汁物もないし、ご飯もいつもの半分くらいだ。  一度意識してしまったら、とたんに寂寥感が沸き上がってきた。  ――俺はあと何回、母さんの料理を、このアスパラを、食べられるんだろう。  就職してからもずっと実家暮らしだったけれど、無事に今日が終わって、両家の顔合わせが終わったら、入籍して、近場のアパートで新生活を始める予定だ。  ものすごく遠くなるわけではないが、当然、今までのような距離感は望めない。  慣れ親しんだこの味は、いつか、ときたま実家に帰ってきたときに食べる、懐かしの味へと変わるのだ。  緊張と感傷の狭間で揺れる心をごまかしたくて、目玉焼き丼を掻き込んだとき、ふいに、二階から足音が聞こえた。  箸を止めて視線をやれば、5歳下の妹――(あおい)が、パジャマ姿で、短い黒髪を気だるそうにいじりながらおりてくる。  この春から大学生になった葵は、自由気ままにキャンパスライフを謳歌しているようだ。今日は日曜だから、ゆっくり寝ていたのだろう。  ついこの前まで、ソフトボールに明け暮れる体育会系女子だったのに。大学ではやらないのだろうか。 「はよー……あぁ、アキ兄、今日だっけ?」  まだ眠気の残る声で朝の挨拶をしながらダイニングへやってきた葵は、俺を認めるなりそう言った。スーツ姿で分かったらしい。 「はぁ~、ついにユリちゃんがおねえさんになるのかぁ……」  葵はやけに感慨深げに呟いた。  優里香は付き合い始めた当初からよく(うち)に遊びに来ていたので、葵のことも実の妹のようにかわいがってくれている。  すでに家族ぐるみで交流もあり、向こうのご両親ともずいぶん親しくさせてもらっているのだけれど、こういうしきたりみたいなものはきちんとしたほうがいいよねと、優里香とふたりで話し合って決めた。一生に一度のことだしね、と。 「ヘマするなよ~?」  にやにやしながら、ねっとりとした口調で冷やかしてくる葵。 「当たり前だ」  とっさに強気で返したものの、心臓が縮み上がるような心地がした。  感情を表に出すタイプではないけれど、俺たちの結婚を一番喜んでいるのは、何気に葵かもしれない。  この成功率99.9パーセントの結婚がもしも破談になったら、父や母、優里香に惨めな思いをさせるだけでなく、こいつに死ぬまで恨まれる羽目になるだろう。正直、そっちのほうが怖い。  大丈夫。きっとうまくいく。アスパラがついてるじゃないか。  あ~、余計なこと考えたらまたトイレ行きたくなってきた。  俺はアスパラ同様、目玉焼き丼を米粒ひとつ残さずきれいに完食すると、手早く、でも丁寧に歯磨きを済ませる。  それからもう一度トイレに寄り、玄関で革靴を履く。  三和土の上に立って振り返れば、家族三人の顔があった。 「いってこい!」  男らしく激励する父。 「いってらっしゃい」  穏やかに手を振る母。 「がんば~」  ダイニングからひょっこり顔を覗かせて、のん気に見送る妹。  そんな三人に、とびきりの笑顔を向ける。 「いってきますっ!」  ありがとう、みんな。俺、幸せになります。  俺は今日も、母の愛情と、アスパラの花言葉の「無敵」パワーを信じて、青空の下へ踏み出した。
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