運転手の話

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 ××商店街は、シャッター街なんてものが話題になっている近年には珍しく、老若男女問わず人々が行き交い、大変な賑わいを見せる場所で、その店や看板の明かりは日の入りから夜明けまで、ずっと周囲を照らし続けます。  ですから近づくにつれて人気が減っていったぼろアパートとは真逆で、こちらは近づくたびに人通りが増えていき、いつしか静寂に包まれていた車内にも、陽気な歌や喧しい掛け声が飛び込んでくるようになりました。思わず目を瞑ってしまいそうなネオンの煌めき具合と、お祭りのようなどんちゃん騒ぎを前に、私はようやく今夜のヤマを越えられたと、内心安堵しました。 「お待たせしました。××商店街です」  街の入り口である巨大な門の前に車を停め、女性に目的地到着の旨を伝えた時、私は内心複雑な感情を抱いていました。予定通りお客を送り届けられたことには達成感を感じたのですが、やはり運転手としての役目を十分に果たせなかったことに、納得しきれていなかったのです。女性と満足に会話できなかったことへの後悔が、私の中でぐるぐると渦巻いていたのです。  いやいや、何を下らないことに悩んでいるんだ、と思われるかもしれません。けれどその時の私にとって、彼女に快適な時間を提供できなかったのではないか、という不安は何よりも重いものでした。少なくとも、彼女から二日分の料金を徴収せねばならないだとか、次の乗客の目星をつけておかねばならないだとか、そういったことに頭が回らなくなるくらいには。あまつさえ、あれだけ自身を蝕み続けてきた恐怖のことさえ気にならなくなる程、私は彼女とのお喋りに対して真剣だったのです。  そんな訳で、不甲斐ない自分を戒めるように、私はミラーに映る己の仏頂面と睨めっこしました。既に青白さが完全に引いた顔相手に、私はたっぷりと非難の視線を浴びせてやりました。でもいずれ、私の興味はそんなアホらしい事ではなく、後ろの席に座る乗客の方に移りました。  最初に一言喋った以外、ほとんど動きらしい動きを見せなかった彼女が、ピクリと身体を揺らしたような気がしたんです。それを感じ取った瞬間、私は彼女が前回、自分の知らないうちに車内から消えていたことを思い出しました。女性が降車の準備を始めたんだと悟った瞬間、私の意識は現実に引き戻されました。  そうだ、自分にはまだまだ仕事があるんだ。仮にも運転手という立場でありながら、お客をほっぽり出して妄想を馳せるなんてどうかしていた。きちんと己の責務を果たさねば。そんな風に無理矢理気持ちを切り替え、前回と今回の分の料金の計算を頭の中でしつつ、後方ドアを開ける準備を済ませました。  道中ではヘマをこいてしまったが、今なら彼女がどんな行動に移っても対応できる! 運転手としての矜恃にかけてそう息巻く私でした。でも、そうやって恐怖を克服して、己の立場に沿った行動を取ろうと誓ったにも関わらず、私は彼女の予想外な行動を前に面食らってしまったのです。 「ありがとうございました」  これまで行き先を伝える時にのみ発せられてきた、あの頼りなく儚い声とは全く違いました。いくら会話を切り出しても引き出すことができなかった、彼女の本当の声振り。たった一言、感謝の言葉を送るために発せられたその声は包容力があって、冷たさなど欠片もない、温もりに満ち足りたものでした。  そのあまりに人間らしい声色にも驚きましたが、何よりも私がびっくりしたのは、女性のある行動です。僅かに揺れたなんてものではない、彼女のとある振る舞いを前に、私は目を丸くして硬直してしまいました。 「……あっ」  私はたった一回だけ瞬きをしました。あれだけ見開いていた目を一瞬でも閉じてしまったことを、私は激しく後悔しました。しかし冷気がすっぱりと失せ、鏡に映るものが自分の顔だけになってからも、私の瞳には彼女の姿がバッチリと残されていました。ずっと伏し目だった彼女が、消える直前に見せた表情が。  その顔色はまさしく死体のような深い青で、生気の欠片も感じさせないものでした。瞳孔は見開かれていてハイライトがなく、口元は固く歪んでいました。恐らく初対面の時点であの顔を見ていたなら、私は恐ろしさのあまり泡を吹いて気絶していた事でしょう。  でも、その冷たく澄んだ肌が、吸い込まれそうな瞳が、凛とした笑みが……二夜目にしてようやく知った彼女の素顔が、すっかり染まりきった(・・・・・・)私の目には、酷く美しく映ったんです。
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