運転手の話

10/37
前へ
/42ページ
次へ
「なんだ、今日は現れないのか」  私は力が抜けたように席にもたれ掛かりました。いや、本来なら喜ぶべきことなんでしょうよ。得体の知れない存在を乗せる必要のない、平穏な夜の訪れが保証されたということですから。  でも、私は安堵よりも先に落胆を感じました。別に取り立てて彼女に会いたかった訳ではありませんが、それでもわざわざ人気の無い路地で待っていたのに、何だか肩透かしを喰らったような気分でした。 「……ま、いっか。今夜は仕事に集中しーようっと」  まあ、それまでの私は彼女の存在に囚われるあまり、他のお客様のことを蔑ろにしていた節がありましたからね。いくら幽霊の相手をしているからと言っても、本来タクシー運転手が乗客に乗車拒否をするのって、営業停止クラスの処罰を受けかねない行為ですからね。  これ以上同じようなことを続けてクレームでも入れられたら、たまったものじゃありませんでしたし……これは運転手としての自覚を取り戻す良い機会だと、割り切ることにしました。だからその日は完全に仕事に打ち込むため、あの女性のことをすっぱり忘れようと誓ったんです。馬車馬のように働く覚悟を決め、暗い路地から抜け出そうとアクセルに足を掛けた……その刹那のことでした。 「スミマセン。☆☆ウェディングガーデンまで、お願いします」 「うおっ!?」  突然のことすぎて、思わず大きな声を出してしまいました。あくまで恐怖でなく驚きから。まあそれでも、アクセルを踏む直前だったこともあって、かなり取り乱してしまいましたけどね。危うく事故を起こして、彼女の仲間入りをしてしまうところでしたよ、ハハハ!  ……まあ冗談はさておいて、呼吸を落ち着けて冷静さを取り戻した私は、再びルームミラーを覗き込みました。いました、いました。青く綺麗な肌をした美女が、こちらにぎこちない笑みを浮かべていました。  正直なところ、いきなり声を掛けてこちらを脅かしてきたことに関して、彼女に文句を垂れてやりたいところでしたが、あくまで私達は運転手と乗客の関係にあるため、必要以上に声を荒らげるようなことはよしました。まあ、言うほど怒っていたわけでもありませんでしたからね。  それより私としては、彼女が最初からその顔を見せてくれたことの方が印象的でした。これまでずっと俯いていた分、新鮮に感じられたんですよね。ですから少し錯乱してしまったものの、ちゃんと気構えを立て直した後でこう返事をさせて貰いました。 「かしこまりました。では、☆☆ウェディングガーデンまで、お送りいたします」  こうして私は今度こそアクセルを踏み込む、暗澹たる路地から脱出、ぱらぱらとまばらな明かりが見える街道に繰り出しました。普段よりも輝いて見える道路を走り出したことで、三夜目が幕を開けました。心なしかあれだけ嫌だった肌を刺す寒さが、ちっとも気にならなくなっていました。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加