運転手の話

14/37
前へ
/42ページ
次へ
「……見えてる、とは?」 「そのままの意味ですよ。私が人間じゃないこと、もう分かってるんでしょう?どうなんですか?」 「……直接見えてる訳ではありません。ルームミラー越しに姿を確認できる、ただそれだけです。声は普通に聞こえますけどね」 「それで十分です。……昨日、一昨日はすみませんでした。最初に行き先を口にするだけで、満足にコミュニケーションも取れなくて。昨日なんてあんなに話し掛けていただいたのに、ずっと無視してしまって。この姿になってから、誰かと話す機会なんてなかったので、なかなか慣れなくて……」  そう謝罪する彼女の顔は、目に涙こそ滲んでいなかったものの、見ているこちらが辛くなってくるほど、悲哀に満ち満ちたものでした。そんな苦しげな彼女の姿を見て、私はようやく悟りました。  これまでのあの堅苦しい笑みは、悲しみに濡れた本性を隠すために、無理矢理作り上げたものだったのだと。そして彼女は、その心の奥底に積もらせたディストレスを、吐き出そうとしている最中なのだと。……そんなお客さんに対して運転手ができることは、一つしかありませんでした。 「……何があったのか、伺ってもよろしいですか? 力になれるかは分かりませんが、それでも話を最後まで聞くくらいなら…… 「……もう、どれだけ昔のことでしょうか。事は私が商店街へ買い物に行った時に起こりました。その日の私は浮かれていました。結婚を間近に控えていたから、やけに気持ちがフワフワしていたんです。だから注意力も散漫になっていて、特に左右を確認しないで、道路を渡ろうとしたんです。そのせいで、横から迫ってきていたトラックに気がつかず……」 「それで今の姿に?」 「はい。病院に運ばれたものの、生きているうちに意識が回復することなく、気がついた時には……だから、彼と最期のお別れもできないうちに、こんな……」  そこまで口にしてから、彼女が俯いたのが見えました。感極まって涙がこみ上げそうになったのか、あるいは溢れかけた涙を隠したかったのか。再び顔を上げたとき、その顔には道化の笑顔が戻っていました。自分の弱々しい気持ちに喝を入れるのは勿論、私に心配をさせまいという気持ちからの行動でしょう。彼女は作り物の気丈な態度で会話を再開しました。 「それからずっと、私はあの病院に留まり続けました。地縛霊というヤツなんでしょうか。私はこの姿のまま、彼が病院を訪れてくれるのを待ち続けていたんです。でも、来るわけないですよね。故人に会いに行くと言ったら普通、お墓とかに行くものですし。でも私、自分のお墓の場所とか知りませんし、何より自分の力じゃ、病院の外に出ることができなくて……結局長きに渡って、あの病院で来るはずのない彼のことを、思い焦がれる他無かったんです」 「……なるほど。それはお辛い限りでしたね。しかし、それならどうして今回、このタクシーを利用してくださったんです? と言うか、どうして病院から離れられないはずの貴女を、私はお運びすることができるんでしょうか?」 「……最近、こう考えるようになったんです。自分の手で移動することが叶わなくとも、誰かの手を借りればその限りでなくなるのではないか、と。実際に貴方と出会う前に、何度か他のタクシーに乗り込んで、遠出したこともあります。まあ、どの運転手さんも私のことが見えないようだったので、あくまで他のお客さんが乗る時にご一緒させて貰うだけでしたけど……」 「……それで、姿が見えて会話もできる私のところを、この三日間利用して頂けた訳ですね」 「はい。でも実のところ、利用するのは一回きりの予定だったんです。霊としての制限みたいなものなんでしょうけど、これまで他のタクシーに乗車した時は、目的地に着いても次の日にはまた、病院に引き戻されるという現象が起こったんです。貴方に最初に運んで頂いた時も同様だったんですけど……二日目の夜、我が身が知らぬ間にこの車内へ移動していたのには、自分でも驚きでした」 「確かに。言われてみれば昨日は、あの病院の側を通ることもありませんでしたからね。地縛霊である筈の貴女が、遠く離れたこのタクシーにワープしていたと……不思議なこともありますねぇ」  そんな風に話す間も車は前進し続け、気付けば目的地の式場まで、目と鼻の先というところまで来ていました。長いようで短い時間を経て、悲嘆に暮れていた彼女に少しずつ、落ち着きが戻ってきたように見えました。ほんのちょびっとだけ柔らかくなった彼女の表情を見て、私は残り僅かな運転時間も、きっちりと運転手に専念することを決めました。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加