運転手の話

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 窓もドアも空調も……何も問題ないのに、身震いするほど寒くなっている。これはいよいよ異常だと思いましたよ。このまま車内にいては風邪をひいてしまう。取り敢えず一旦外に出ようと思い、私は周囲に車通りが無い事を確認すると、悴む手でドアノブに指を掛けました。と、その時でした! 「スミマセン」 「……ほえっ?」  思わず変な声を出してしまいました。だってねぇ、私はたった一人でタクシーの中にいたんですよ? だからねぇ……背後から蚊の鳴くようにか細い声が聞こえてくるなんて、そんなこと絶対にあり得ないんですよ! でも……私は確かに耳にしてしまったんです。誰も乗っていない筈の後部座席から発せられた女性の声を! 「……誰か、乗ってる?」  私は改めて背後に視線をやり、真相を確かめようとしました。しかしそこにあったのは、シワの一つも付いていない空のシート。何だ、やはり幻聴か。そもそもの話、誰かが無断で車に乗り込んできたなら、音なりサインなりですぐに分かる筈。  私はホッと息をついて前に向き直りました。その時フロントに取り付けられたルームミラーに視線がいったのは、全くの偶然でした。特に何か意識していた訳ではありません。にも関わらず、私の目はその鏡に釘付けとなりました。いや、正確には……その鏡に映り込んでいた、冷気と幻聴の元凶に。  空っぽだった筈の席に座り込む不穏な人影。顔は見えませんでしたが、長い黒髪や白と茶が混じったブラウスなどの特徴から、女性であることが伺えました。謎の女はピタリとその場に硬直し、ただ俯いてシートに腰掛けていました。勿論、そんなお客を乗せた覚えはありません。見たこともない人間?の登場にも驚きましたが、私にはそれよりも気掛かりなことがありました。  私はさっきよりもずっとビクビクしながら、無理矢理首を回して後ろを振り返り……先程と同じように無人の座席を目にして、確信しました。この女は人間ではないのだと。だって、鏡の中にだけ存在している人間なんて、どこにもいませんからね。
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