運転手の話

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 そこに居るはずなのに、どう足掻いても肉眼では見えない女性の出現。たまにテレビの特集なんかで、幽霊を乗せたタクシー運転手の怪談を聞くことはありましたが、まさか自分自身が怪談話の当事者になるなんて、想像もしていなかったことでした。加えて場所は病院の近く。彼女は手術に失敗して死んだのか、それとも不治の病で亡くなったのか……根拠もない憶測に頭の中を埋め尽くされ、私は余計に怯える羽目になりました。  そんな風に、幽霊を前にして完全にヘタれた私を突き動かしたのは、ここから離れなければ危険だと感じる本能でした。私は寒さと恐怖から完全に感覚を失った手で、再びドアノブを握り締めました。そして鏡に映る女の姿を横目に、額からだらだらと冷や汗を流しながら、震えまくる指先に渾身の力を込めました。 「スミマセン。○○荘まで、お願いします」  その消え入りそうな声を前に、私は完全に硬直してしまいました。幽霊がこちらに話しかけてきたのも勿論ですが、よりにもよって提示された行き先が○○荘だったんですもの! ○○荘はかなり昔に廃墟になったアパートで、地元民からは心霊スポットとして有名な場所なんです。  お客も、お客の望む目的地も曰く付き。当然、そんな要求に耳を貸す気など毛頭ありませんでした。しかし、私はこのようにも考えました。ここで逃げる選択肢を取ったとして、そこから無事で済む保証は何処にある? 寧ろ下手に相手を刺激してしまえば、かえって危険な目に遭うのでは、とね。 「スミマセン。○○荘まデ、お願いしマス」  返答をしない私に業を煮やしたのか、二度目は弱々しい声の中に、僅かな苛立ちが含まれていました。もしこのまま、彼女のことを無視し続けたとしたら、逃げる云々の前に酷い目に遭わされるのでは? もう、腹を括るしかない。私は無理矢理にでも笑みを浮かべ、心の中で己に喝を入れ、あくまで運転手としての役割に徹する覚悟を決めました。 「……分かりました。では、○○荘まで送らせていただきます」  私は勇気を振り絞り、狼狽して上ずった声で彼女にそう伝えました。氷のように冷え切ったシートに座り直し、再びハンドルをその手に取ると、そこからアクセルを思い切り踏み込みました。外はもうすっかり夜で、私はいつも以上に暗く見える道路を走り出しました。上空で輝いている筈の星々の光も、その時はちっとも目に入ってきませんでした。
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