運転手の話

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 そこから私は無言で車を走らせ続けました。これが普通のお客さん相手だったなら、あの手この手で話題を生み出し、会話に花を咲かせていたことでしょう。でも、その時に限って乗せているのは幽霊。途中何度かルームミラーを確認しましたが、その度に映っているのは、俯いて微動だにしない彼女の姿だけ……いや、もう一つ映っていたものがありました。私の顔です。死体もかくやというほど真っ青で、額を大量の冷や汗が伝い、カッと目をひん剥いたその表情は、ある意味幽霊と同じくらいおぞましく見えたものです。  運転中、何度か私を呼び止めようとする人々の姿を見かけました。きっと彼らは先客の存在に気がつかなかったのでしょう。本来ならその都度停車して、乗せられない旨を伝えなければならなかったのですが、仮にそれで目的地への到着時間が遅れてしまったら、後ろの幽霊に何をされるか分かったものじゃありませんでしたからね。恐怖に屈してしまったがために、私はほとんどの乗客候補をスルーして、その度申し訳ない気分に陥りました。  幽霊のために運転せねばならないという恐怖に精神を擦り減らされ、いつしか私は泣きたくてたまらなくなってきました。しかし、これまで散々ビビり散らしてきたというのに、その上泣きじゃくるなんて格好悪いにも程がある!  私はそんなしょうもないプライドによって、涙を流さないよう堪えました。グッと目頭に力を込めながら、間違っても愚痴や弱音なんて吐いて、幽霊を刺激しないよう気にしつつ、最新の注意を払って運転し続けました。  そのまま数十分ばかり車を走らせ続けた結果、比較的人通りが多かったエリアから離れ、しんと静まり返った裏路地に進出しました。外灯なんてほとんど無い、幽々たる道路をひたすら前進していると、閑散とした路地ではやや目立つ、古ぼけた大きな建物が見えてきました。○○荘です。ペンキの剥げた壁や草ぼうぼうの敷地が、暗闇と相まってかなりおどろおどろしく見えました。私はそのおっかないアパートの入り口付近に車を寄せると、無理矢理声をひり出してこう言いました。 「……お客さん、○○荘に到着しました。そ、それでは……その……料金の方を……」  本当のことを言えば、料金なんてどうでもいい。目的地に辿り着いたんだから、早くここから出て行って欲しい。もはや鏡を覗き込む余裕もなく、落ち着かずあちこち目を泳がせながら、私は女性からの返事を待ちました。しかし、いくら待ってもあのか細い声は聞こえてきませんでした。目的地に到着したのに何の反応もないとは、これは一体どういうことだろう。私はあの女性がどういう状態にあるのか、ほんの少しだけ気になりました。  私は覚悟を決めて、ルームミラーに目を通しました。その瞬間、これまでの自分がいかに無駄な時間を過ごしていたのか、知らしめられることになりました。鏡には何も映っていなかったのです。  どのタイミングだったのかは知り得ませんが、少なくとも私がガタガタと怯えていた間に、彼女はしれっと車を降りていたようでした。もうこのタクシーの中には自分しかいない。そのことに気付くと同時に、あれだけ不快極まりなかった肌を刺す寒さも、もうとっくに引いていたということを知りました。  もうこれ以上無理に運転しなくてもいいと知った瞬間、これまでの疲れがどっと湧いたようで、私の肩の力は一瞬で抜けてしまいました。そこからしばらくして、気力が回復した私は予定していた通り、病院から離れたタクシー乗り場に移って客待ちをし、そこからはいつも通り業務に励むことになりました。  それ以降は平和に仕事が進んでいったので、勤務時間が終わる頃には、私の気はすっかり緩んでしまいました。……え、これで終わりなのかって? いやいやとんでもない! これはまだまだ序章です。……では、一夜目の話はこの辺りで切り上げて、二夜目に舞台を移すとしましょうか。
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