15人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
桜、散る
喘息の発作騒動の後、葉山先生が学校で一躍時の人になった。誰が聞き付けてきたのかは知らないが、葉山先生が結婚するというニュースは、学校中を凄いスピードで駆け巡った。先生が休暇の申請をして振り替え授業が決まり、呆気なくバレてしまった。
みんなと同じテンションで噂話に興じるフリをしている花純だが、心の中で泣いていた。誰にも悟られる訳にはいかない。私は陽気でズケズケ物を言う、男勝りないつもの姿でいなきゃ…。
そんなときに限って教科係の仕事があった。授業で使うプリントを綴じるいつもの単純作業。放課後の教科準備室で黙々とプリントをホチキスで止める。
「あー煙草が吸いたい。禁煙辛い。眠い」
葉山先生は貧乏ゆすりをしながら、パソコンに向かっている。
「また発作起こしますよ」
花純は作業の手を止めずに下を向いたまま言う。
「そうだ。吸入器、一個新しいの病院で貰ってきたから」
先生は椅子から立ち上がって、ビニールの袋に入った喘息の吸入器を渡してくれる。
「じゃあ頂きますね。ところで、先生。ちゃんと予備も含めて二個常に持ってますか?」
「ああ。空になってるのに気がつかないなんて醜態晒したくないから二個持つようにした。二個あれば煙草吸っても大丈夫…」
「大丈夫な訳ないですよね?死にたいんですか?結婚式控えてるのに」
花純はついついイヤミな口調になってしまう。
「それなんだよ。優美子さんがさあ…。禁煙しろってうるさくて。優美な子って書くんだんけど確かに綺麗だけど優しくないよ、全然。一服したい!」
婚約者の名前か…。
「優しい人だと思いますよ。先生の健康を心配してくれてるじゃないですか。幸せですね」
無理に明るく笑って冷やかしてみる。
「まあな。桜の花言葉の話も実は優美子さんが教えてくれたんだ。彼女四月生まれでさ、桜の花言葉から優美子って名前になったんだって」
デレデレと惚気出した先生と目を合わさないようにプリントを1枚ずつ束ねる。
「素敵な由来ですね。先生が花言葉に興味を持つなんて変だなと思ってました。先生は花より団子、いや、お酒と煙草ですもんね」
いつものようにズケズケと辛口の意見を言う。
「やめろー!今、煙草って言うな。吸いたくなる、本当に」
髪をかきむしって地団駄を踏む先生。花純は、ブレザーのポケットから化粧ポーチを取り出しながら立ち上がり、先生の机の引き出しの一番上を勝手に開ける。
「新藤、何してるんだ!?」
いつも先生がそこに隠してる煙草を一本取り出すと、化粧ポーチから睫ビューラー暖め用のライターを取り出し、慣れない手つきで煙草に火をつける。勢い任せに吸い込むと、ゲホゲホと情けないくらいに咳が出る。
先生は花純が手にした煙草を慌てて取り上げる。花純はゼエハアと荒い息をしながら、
「吸いたいなら吸えばいいじゃん」
タメ口で、いつの間にか涙が溢れていた。煙が目と喉に染みて泣いてるだけ。禁煙のひとつもサクッと出来ない三十路男なんて大嫌い。必死で強がって見せる。
好きとか愛してるとか、そんな言葉…。結婚が決まった人に言える訳がない。
でも、花純の涙が初めて勢いで吸った煙草のせいだけではないと葉山先生も気がついたようだ。まだ火の着いたままの煙草をゆっくり口元に持っていき、深く吸い込む。
慣れた手つきで携帯灰皿に灰を落としてから、白い煙を吐く。
「最後の一服にする。新藤に心配かけて、これじゃどっちが教師かわからないな」
先生は携帯灰皿に力を込めて煙草の火を消すと、いつもの髪をかき上げる癖をしてからこう呟いた。
「なあ…。桜って花が先に咲いて、葉は後から芽を出すよな。花と若葉が一緒に居られる時って本当に短い。思い合っててもすれ違いなんだよ、毎年毎年」
教科準備室の窓からはすっかり若葉だけになってしまった桜が見える。花純は先生が言おうとしてることを察して、
「まるで年の差恋愛に苦しむ生徒と教師みたいですね」
涙を拭ってなるべく明るく笑おうとした。私は陽気でいなきゃ、いつも。
「新藤、約束してくれないか。俺よりいい男を必ず見つけるって。いつか同窓会で俺をギャフンと言わせてくれ」
先生の目は今まで見たことのないほど切なそうに訴えかけてくる。笑ってはいるけど、目は泣いている。
花純は真っ直ぐ先生の瞳を見つめて、
「必ず見つけます。いつか陽気なオニユリだって言ったことを後悔させてやりますから。桜のように優美な女になって、あの時私を捕まえておけば良かったって悔しがる顔を楽しみにしてます」
精一杯笑顔で言い返したつもりが、また涙が溢れてしまった。先生の目頭からも一筋の涙が零れて、
「幸せになれよ、必ず」
花純の頬を軽く撫でてくれた。花純は、すぐ引っ込めようとした先生の手に自分の手を添えて、
「先生こそ幸せになってください。さようなら、私の初恋の人」
背伸びをして先生の頬に軽くキスをした。
先生がリアクション出来ずに真っ赤な顔で固まっている間に、
「プリント綴じ終わったのでここに置いておきますね。失礼しました」
教科準備室の引き戸を開けてお辞儀をすると、戸を閉めて、廊下を勢い良く駆け抜けた。昇降口で靴を履き替えて、また走り出すと、日差しに透けてまだ頼りない小さな若葉が揺れる桜の木から、甘酸っぱい青い香りがした。
きっと、葉桜を見る度に、私は先生を思い出すのだろう。これからもずっと。
花と若葉が一緒に居られる時はほんの一瞬。
でも、ほんの一瞬でも思い合えたならそれでいい。片想いじゃなかった。それだけで、私は救われてる。
これから本格化する受験も絶対乗り切ってみせる。先生よりいい男を捕まえるなら、まずは自分がいい大学に行っていい男に近づかなきゃ。
泣いてる暇はない。
それに、昨日の戯れなんて覚えてないフリをして、陽気なオニユリでいなきゃ。
女は誰しも物心ついたときから女優なの。
大丈夫、きっと。いつもの私でいられる。
先生よりいい男と必ず結婚するから。
同窓会楽しみにしてて、先生。
最初のコメントを投稿しよう!