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徳山光を知らない者はこの町にいない。
町でただ一人の医師・徳山慶光氏の孫娘が産声をあげた地は、そもそも他県である。にもかかわらず、町民の注目を一身に浴びるのは、彼女の父親に理由があった。
徳山家のみならず、町の将来を担うべく、医師になることを義務づけられていた徳山ジュニア(名は光晃)は、気の毒といえば気の毒である。
剛健を絵に描いたような父及び町民からのプレッシャーに耐え得る器を持ち合わせていなかった光晃氏は、医大三浪目が決まった年の春、町からひっそりと姿を消した。
妻を早くに亡くし、男手一つで息子を育ててきた徳山医師を誰もが哀れんだ。同時に、医師不在の町となる未来がぐんと近づき、町民は健康への自助努力を強いられることとなった。
「豊橋の工事現場で働いてるらしい、って母ちゃんが言ってた」
姿を消して早や十年以上。それでも、光晃氏の話題がたまに出るほどに田舎は退屈である。
(徳山先生は知ってるのかなあ)
中学二年の冬休み最終日、陽葵は校庭で仲間たちとサッカーに興じながら、隣の徳山家について飛び交う噂を聞いていた。
「あっ」
集中を欠いたせいで、ボールは思いきり場外へ飛んでいった。慌てて追いかけた先に、見慣れぬ少年が佇むのを見て足を止めた。
ハイカットスニーカーの爪先が、ボールの動きを封じている。スニーカーと同じ、臙脂色のニットキャップと、小さな顔半分をも覆うマフラーが目を引いた。
誰だ、と心で呟いた声が聞こえたかのように、彼は数歩後退した。
細い足がしなるのが静止画のように映った次の瞬間、蹴り上げられたボールが、唸りながら陽葵の髪をかすめていった。
「!!!!」
かろうじてかわしたが、たまらず地面に手を着いた。「なにすんだよ!」抗議の叫びとともに顔を上げると、相手は陽葵よりも怒りに満ちた表情で突っ立っていた。
「父さんのこと、馬鹿にするな」
言うなり、くるりと背を向けた彼は、たちまちに走り去ってしまった。
仲間たちが駆けつけても、陽葵はその場に座りこんだまま、少年が消えた方角を見つめていた。
怒り、ではない。
彼がぶつけたのは、悲しみだった。
再びボールを追い始めたが、脳裏には涙が浮かんだ大きな瞳が焼きついていた。
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