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02 甘美
「お兄ちゃーん」
と、呼ばれたのが俺の事だと分るのにかなりの時間がかかった。
校内で俺をそんな風に呼ぶ人間はいないし、俺じゃなくてもそんな呼ばれ方の奴はいない。
本当の兄弟だって、高校生にもなったら兄を「お兄ちゃん」とはあまり呼ばないだろ。
「お兄ちゃんってば」
そんな声が聞こえたのは、教室移動中の廊下だった。
俺も、周りにいた友達も、こちらへ向けられているなんて思わなかったから、声の主が俺の制服を掴むまで振り向きもしなかった。
グイッと引っ張られて進行を阻まれる。
誰だよ、と振り返ると、篠杜海弥がいた。
「全然気付いてくれないんだもん。向こうから走ってきちゃったよ」
そう言いながらも、海先輩は息一つ乱れていない。
それどころか、ふわりと微笑んで俺を覗き込むように見上げる。
「すみません…て、『お兄ちゃん』って俺の事ですか!?」
そんな呼び方するから気付かれないんだよ。
大体、俺は海先輩の「お兄ちゃん」じゃないし。
あ、でも名乗ってなかったかも。
先輩は、全く接点のなかった俺ですら「海先輩」と呼んでいる程校内に浸透している人だけど、俺はその辺で埋れている一生徒に過ぎない。
俺が一方的に海先輩のこと知っているだけなのに、違和感もなく喋ってくれるから妙な錯覚をしていた。
「今日も公園に来るの?」
俺を「お兄ちゃん」と呼ぶのは海先輩の中では既に固定らしく、俺の疑問は全く無視だった。
名乗らなかったこちらも悪いので、この場ではあえて追及しないことにする。
「えっと…考え中です」
本当の所、行くつもりはなかった。
海先輩の毒牙から卓真を守ってやらなければならないけど、その前に俺がヤバい。
弟なんかより先に、俺の方が先輩の毒牙にかかりそうだ。
先輩にその気なんか無いだろうし、俺が勝手に嵌まりそうになっているだけなので詳しくは言えない。
「もし行くんだったら、一緒に帰ろうと思ってたのになぁ」
少し残念そうに言われて、思わず「行きます」と即答しそうになった。
気を抜くと、何でも言う事を聞いてしまいそうだ。
「無理にとは言わないけど、行こうよ」
どうしてこんなに甘えるのが上手いんだ。
単なる錯覚だろうけど、表情や仕草の一つ一つがわざとらしいくらい俺を追い込んでいく。
ヤバい、と分っていても、海先輩に言われると断れない。
勿論、先輩にそんな気はこれっぽっちも無いという事も承知の上だ。
「…分りました。行きますよ、公園」
渋々を装って答えた。
本心は「喜んで!」状態だ。
「やった。じゃ、帰りに校門の所で待ってるね」
本当に嬉しそうなその笑顔は、今まで遠くから見ていた大人びたものとは違っていて、不覚にも可愛く思えてしまった。
この人は、自分の魅力なんて全く考えて無いのだろう。
イヤ、知っていてわざとやっているのかもしれない。
だとしたら性質が悪い。
ますます深みに嵌まっていく、そんな哀れな後輩を見て面白がっているとか、本当に勘弁してほしい。
サクサクと話を進めて、先輩は軽やかに行ってしまった。
その後姿を見送りながら、自分の意思の弱さに盛大に溜め息を吐いた。
「今の海先輩だろ?」
先輩がいなくなるや否や、周りで遠巻きに見守っていた友人たちに囲まれた。
俺たち一年生の間では「顔も名前も知ってはいるけど、まともに話した事はない」というのが海先輩の位置だ。
手を振れば振り返してくれるような気さくな人だけど、だからと言って気安く話し掛けるような事はしない。
上級生たちは気軽に接しているようだけど、ああいう人は、遠くから見ているだけの方が楽しいのだと思う。
近づきすぎた俺が言うのだから間違いない。
「お前、海先輩と知り合いだったの?」
「弟の公園友達」
興味津々の友人の質問に投げやりに答えた。
「何だ、そりゃ」
嘘じゃない。
俺の呼び方からも分るように、海先輩からすれば、俺は「タクマくんのお兄ちゃん」に過ぎない。
実際、名前も聞かれなかったしな。
別に寂しくなんかないぞ。
俺も名前で呼んで欲しいと、小学生に張り合うなんて虚しすぎる。
「何か、ウチの弟とやたら仲いいんだよな」
「お前の弟って歳いくつだっけ?」
やはり来たか、その質問。
さすがは、幼児好きで有名な海先輩だ。
「七歳」
即答すると、その場の友人全員が固まるか笑うかのリアクションをした。
俺はその反応に、渇き笑いしか出てこなかった。
「マジで!?」
「ヤバいって、それ」
「海先輩に食われちゃうぞ、お前の弟」
みんな同じ事考えるとは、さすがは海先輩。
でも、今の所一番ヤバいのは俺なんだよな。
卓真の心配をしている場合じゃない。
□ □ □
放課後に校門へ行くと、本当に海先輩が待っていた。
公園に行く前に寄りたい所がある、と先輩が言うので二人で向かった先は、途中にあるコンビニだった。
そこで何を買うのかと思いきや、個別包装された袋入りのアメだった。
小学校の時に遠足に持って行ったような、大人数に配れるやつ。
そんなものを買って何をするのかと思っていたら、公園に付くや否や、海先輩は袋の封を開けてその辺にいた子供たちに配りだした。
6、7人いた子供達全員が先輩の顔見知りらしい。
まるで餌付けのようだ、という感想を抱いたのは言うまでも無く、それよりも、そんなに手懐けて何を企んでいるのかという方が気になって仕方なかった。
昔、「お菓子を貰っても知らない人について行ってはいけない」と言われた事が頭を過る。
この場合、「知らない人」ではなく「怪しい人」が適切か。
でも、この子たちには海先輩が「怪しい人」には見えないだろう。
俺だって、校内の噂を知らなかったら、「なんて子ども好きな人なんだろう」と感心していたと思う。
アメを配り終わった海先輩が、先にベンチに座って待っていた俺の所へやってきた。
手に持った袋入りのアメは半分くらいに減っている。
「いつもそんなの配ってるんですか」
「いつもじゃないよ。たまに」
俺が呆れたように訊くと、海先輩は満足気にそう答えた。
子供たちの好感度を上げて、気分上々なのだろう。
良かったですね。
嬉しそうな海先輩を見ていると、俺も嬉しくなってしまいます。
本当に困ったものです。
「手懐けて何するつもりですか」
「人聞き悪いなぁ」
海先輩はクスクスと笑いながら、アメを一つ手に取ってその袋を開けた。
カラン、と軽い音を立てて先輩はアメを口に放り込んだ。
その仕草がとても子供っぽくて、年上だということを忘れてしまいそうになる。
「俺にならともかく、卓真に手を出すのは止めてくださいね」
「何? お兄ちゃんの方ならいいの?」
こちらを見た海先輩の眼が、驚いたように少し大きくなる。
しまった、つい本音が…。
慌てて否定しようにも、既にもう遅かった。
なんとか誤魔化そうと考えながら、ゆっくり海先輩に視線を向けると目が合ってしまった。
「そうなら早く言ってよ」
「は?」
目前に迫った綺麗な顔に、思わず見惚れる。
この距離でも整っているのが分かるし、触れてみたくなる肌に目を奪われてしまう。
その隙を突かれたのだろうか。
海先輩の顔が限界まで近づいて、若干の衝撃と共に止まった。
躊躇うことなく押付けられた唇は、何も考えられなくなる程柔らかかった。
難なく侵入され絡められた舌は酷く甘い。
何か、異物が口移されたと気付いたのは、唇が離れてからだった。
甘さの正体は、先輩が舐めていたアメだ。
それが、今は俺の口の中にある。
無意識に舌の上で転がすと、歯に当る音がした。
「美味しい?」
放心状態にある俺を覗き込んで海先輩が訊いてくる。
「…えっ、と、まだ、よく分りません」
そう答えるのが精一杯で、ぼんやりとした頭のまま先輩を見返した。
ペロリ、と自分の唇を舐める海先輩の何でもない仕草にどうしようもなくなる。
「美味しいと思うよ。ウチの妹も好きなんだ」
相変わらずの笑みで言う先輩の真意もアメの味も分らないが、甘いのは確か。
「…海先輩は?」
「好きだよ、勿論」
俺が誤解するように、わざと含みを持たせた言い方をする。
わざとだと分っているのに、俺はそれに逆らえない。
確実に、抜け出せないほど深みに嵌まっている。
クスクスと笑う海先輩の隣で、俺はどうしようもなく途方に暮れていた。
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