序 月に吠える

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序 月に吠える

 海の地平線の彼方で閃光がとどろいた。それは、ちょうど絶壁から岩が砕け散る瞬間と同じだった。  岩は、群青色の空を嘲るように弧を描いて飛来し、近くの海を潜っていく。 岩が水面に衝突し、泡立った白波が爆ぜた。誰も、誰一人として気付く者はいなかった。  とろけた様な体を持つ女が、海の底から浮かび上がってきたことを。 「あら、今宵は月が美しいですこと。」  女は海を丸ごとさらうかのように、長い長い髪を気怠げに掻き上げた。絡んだ黒髪と陶器のように青白い肌だけが、月明かりに鮮明だった。 「何年待ったことでしょう、この度は刹那(とき)を。 私が再び体を取り戻せるこの刹那を。」  女は肉体なき(かいな)を眼前に掲げた。それは一筋の消え入りそうな青白い光にしか見えない。それでも、女は満足だった。 二百年、三百年、いや四百年。女は海の底で潜んでいた。見つからよう、瓶の中のごみとして。  かつては己の体で人々に恐怖を与え、世を風靡(ふうび)した女であったのに。 「この私がなぜ、何の変哲もない刃にねじ伏せねばならなかったのです。なぜあたくしが忘れられ去られなくてはならなかったのですっ!」 潮鳴りが絶壁に激しく打ち響いた。
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