3人が本棚に入れています
本棚に追加
別れの引き金
振られた。結婚をしようという話の最中に。理由は明確だ。俺が、借金の話を打ち明けたから。それでも、俺たちの4年間はこんなに簡単に崩れ去ってしまうレベルのものだったのか。
俺は悔しかった。
彼女と最初に出会ったのは、大学時代のアルバイト先だった。俺が入ったときには、彼女は既にそこで働いていた。バイト先では先輩後輩という仲であったが、お互い2年生ということもあり、すぐに意気投合した。
就活を控えて、お互いの夢について語り合った。彼女はおもちゃメーカー、俺は自動車メーカーを目指していた。
「私ね、小さい頃から家に親が不在がちで寂しかったんだ。だからさ、家にいる時私の相手をしてくれるのは、おもちゃだけだったの。寂しい子でしょ」
ふふっと彼女は笑う。暗い話題も、明るい表情で語ってしまう彼女に一瞬で引き込まれた。
「俺と付き合ってくれないか?」
気がついたら口が先に動いていた。あ、いやその……。俺が言い訳を考えているなか、彼女はいいよ、と呆気なく返事してくれた。あの頃は、随分と素っ気なかったな、なんて思い出して涙がこぼれる。
結局、彼女も俺も夢を叶えることができないままだった。そういえば、言ってなかったな。今更になって気づく。
「あなたは、どうして自動車メーカーなの?」
彼女の素朴な質問を俺ははぐらかしてしまった。
「何を言っても受け止めるのにな」
彼女は少し寂しそうな笑顔をみせた。
その優しさが、笑顔が、いつも眩しかった。俺にはいつまでも愛おしい存在で、だからこそ言い出すことができなかった。
「ねえ。私の勤務地、博多になっちゃった」
彼女はある日の帰り道、こんなことを言った。俺は、しばらく反応することができなかった。
「その、遠距離をするうえで重要なことを調べたんだけどね」
彼女は決意を決めたようにそう言った。
「ゴールを、設定することが必要なんだって」
「ゴール?」
「うん、遠距離がいつまでだっていう」
彼女の顔は強張っていた。俺に拒絶されるのを怖がっていたのだろう。それでも、何とか勇気を振り絞って言ってくれたその姿が、何よりも愛おしかった。
「結婚か。もちろん俺は最初からそのつもりだったよ。言ってくれてありがとう」
彼女をぎゅっと抱きしめた。この時間が、いつまでも止まっていてほしいと心から願った。
それと同時に、俺はいつでも後ろめたい気分だった。
「お金貯めないとね」
彼女の笑顔が、あの時ほど胸を締め付けた時はない。
「仕事、頑張れるよ」
俺も必死で笑顔を繕った。
「なにかあったら私に言うんだよ。私はいつでも味方だからね」
彼女は口癖のようにそう言っていた。
社会人になって、いろいろとお金が必要になった。引越し費用、会社員グッズ。それでも彼女に会いに行くお金は惜しめない。貯金なんて、できるはずなどなかった。むしろ、マイナスが膨らむ一方だった。
「お金、全然たまらないよね」
彼女がそう言ってくれたときには、飛び跳ねたいほど嬉しかった。
「今は無理じゃないか?」
俺は彼女をたしなめるように、言葉を選んだ。
「やっぱそうだよね。ちなみに今って、お金どのくらい貯まってる?」
「貯金額なんて、いえないよ」
まただ。彼女の素朴な疑問をはぐらかした。私なんてほぼゼロだよ、と笑う彼女に俺もそんなもんだ、と真顔で返す。
いつか言おう。いつか、言わないと。その気持ちはずっと持っていた。だけど、遅すぎたんだ。
「もう、結婚早めようか」
彼女からそんな言葉がでたのは、付き合い始めて4年めのことだった。心底、遠距離にあきあきしていた俺にとっては、これほど嬉しいことはなかった。
「ああ、しよう」
だがその瞬間、胸になにかがつっかえた。本当にこのままで良いのか? そんな疑問が幸せな瞬間にも頭から離れなかった。
「ひとつ、言わないといけないことがあるんだ」
俺は彼女をじっと見つめた。彼女は怯えていた。
「俺、借金があるんだ」
その時、俺は初めて彼女に本当の自分を打ち明けた。自動車メーカーに務めていた親父がリストラにあい、酒に溺れて家が困窮していたこと。自分の借金のこと。彼女は明らかに動揺しているようだった。
「どうして。どうして言ってくれなかったの? 私はその程度の存在だったの?」
彼女は俺にそう言ったっけ。そうだ。彼女は、本当のことを言わなかったことに怒っていたんだ。俺はあの時なんて答えた? ついさっきの出来事なのに、記憶が曖昧としている。
「言ったら離れちゃうと思ったんだ」
彼女は本当に、去ってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!