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変えようのない青
共に部屋に入ってきたエンプティーを見て、彼は目を見開いた。露わになった白目は赤子のように清らかで、彼がまだ小学校に通うような子どもであることを思い出す。
「何それ」
肉のついた幼さの覗く手が向けられる。彼女を指し示すそれはきちんと掌が上に向いていて、彼の、元となる人物の育ちの良さを感じさせた。
「エンプティーです」
「いや、名前を聞いてるんじゃなくて」
馬鹿なのか、とでも言いたげに猫目が細くなる。そのまま彼は額に手を当てて、椅子へと腰を下ろした。
「何? 新入り?」
「まあ、そんなところですね」
「ふーん、だから昨日来なかったんだ」
それが拗ねたように聞こえるのに気づいたのだろう。まろい頬にさっと赤みが差す。腕組みをした少年は、誤魔化すように私の背後にいるエンプティーを睨みつけた。
「で? 先輩に対して何か一言もないわけ?」
カーキ色のズボンを纏った足が、机の下で交差される。鼻先で笑った彼は、細い顎を少し持ち上げた。
睨まれても偉ぶった態度を取られても、背後からは物音一つ聞こえない。本当にいるのだろうか。途中で出て行ってしまったのでは。そんな心配すら浮かぶほどの静寂。けれど、背中に籠った熱が、妙に伸びる背筋が、たしかに彼女がそこにいることを伝える。
「本当に何もないんだ?」
苛立ちに波打つ声が響く。それはどこか不安が覗いているようにも聞こえた。未知の生物を窺うように、その瞳は逸らすことなく背後の彼女へ向けられている。
「……何もありませんよ、彼女には」
気づけば口から溢れ出していた。「は?」と気の抜けるような声が響き、猫目がこちらへ動く。意味がわからない。白い顔にはそうありありと書かれていた。
「何もない。ただそれだけです」
なおも何か言いたげな彼から目を逸らし、手元のバインダーを覗く。白いコピー用紙には、今日の予定が博士の細い字で書き込まれていた。
検証を頼みたい。博士のその言葉を聞くや、長谷部は凄まじい剣幕で彼へ詰め寄った。気安く話しつつも、長谷部はいつも博士にはどこか一線を引いて接していて、感情を剥き出しにぶつかる彼を見るのは初めてだった。
側から見ていても身が竦むほどの迫力。けれど、何より恐ろしかったのは、襟首を掴まれようが声を荒げられようが顔色一つ変えず、それどころか薄い笑みすら浮かべていた博士だった。
しばしの押し問答の末、意思を変える気がないと悟った長谷部は、「勝手にしろ」と吐き捨てるように言って部屋を出た。それからの時の流れは目まぐるしく、気づけば私の部屋には、業者によって新しい家具・機材が運びこまれ、すっかり彼女と二人で暮らすための設備が整えられた。その迅速さといえば唖然とするほどで、もうずっと前から、博士はこうすることを考え、準備していたのではないかと思うほどだった。
九時出発の文字を確認し、腕時計へと目をやる。まだあと三十分は余裕があった。
「充電状態はどうですか?」
「じゅーぶん。問題なし」
「そうですか。でも念のため、もう一度確認をお願いします」
壁際のチェストに置かれたチャージャーを指差せば、少年はあからさまに唇を歪ませた。だったら聞くなよとぼやきながら、大人しくチェストの前へと移動する。正面へと彼が立った瞬間、白い山型の機械からは光の帯が伸びた。細い体を緑色が這い終わると、機械的な声でエネルギー残量が告げられる。九十八パーセントと紙に書き込み、顔を上げれば、目が合った瞬間、少年は口端に勝気な笑みを浮かべた。
「ね? 言った通りでしょ?」
「そうですね。では、私は博士に出発の連絡に行ってきますので」
向けられる不満げな視線を無視しつつ、扉の方へと振り返る。瞬間、視界に映った瞳に肩が跳ねた。零れ落ちそうな青は、静かにこちらに向けられていた。蛍光灯の白い光を映し込んだそれは、果てのない夏空を思い出させる。
「……行きますよ」
返事はないとわかっていつつ、声をかけて横を通り抜ける。案の定、咲く寸前の蕾のような唇からは、何の音も紡がれなかった。ただ消え入りそうな足音だけが、彼女が付いてきていることを知らせる。
共に過ごすことを命じられて以降、エンプティーは絶えず私の後を付いて回るようになった。それは片時も離れず、という言葉がぴったりなほどで、雛を育てる親鳥の気分にすらなる。違うのは、どれだけ共に過ごそうと彼女が成長することはないということ。そして、この胸に巣食い始めた感情は、親が子に向けるような柔く温かなものではないということだ。
首を少し曲げ、後ろを窺う。立ち襟についた細かなレースの隙間から、MHの刻印が覗いている。ベビーブルーのワンピースは他に何の装飾もなく、かえってその潔さが彼女の美しさを際立たせていた。
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