混ざり交じらぬ青

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 喫茶店を出ると、どちらからともなく研究所に向かって歩きだした。いつの間にか日は傾きかけていて、下校帰りの小学生の姿がちらほらと目に映る。  赤いランドセルを背負った少女が前を横切った時、風にのって声が聞こえた。聞き返すより先に、前を歩く長谷部が振り返る。 「機械でも、もし成長したら違った未来があったと思うか」  縋るような声が耳を打つ。黒光りする髪は風に掻き混ぜられて、その表情を覆い隠した。 「仮定の話に意味はありません」  いつものように無愛想に返す。  骨張った手が髪を掻き分ける。現れた四角い顔には、泣き笑いのような表情が浮かんでいた。 「……だよな」  自嘲の滲んだ声がする。再び背を向け歩きだした長谷部は、研究所に着くまでそれから一度も振り返ることはなかった。  門をくぐると、彼は立ち止まって道を譲った。鍵を開けてもらうためだとわかった私は、少し胸を張って前を通り過ぎる。  玄関扉に取りつけられたテンキーの蓋を開け、今日の解錠番号を打ち込む。最後の数字を押し終わった時、扉は微かな音をたてて開いた。 「くそ、やっぱ覚えらんねえな」  ぼやきが聞こえてくる。やたらと見てきていたのはそのためか。そう思いつつ扉を開ければ、電気が消え、一層寒々と見える廊下が視界に映った。 「……頭ですもんね」 「おい、最初の方なんか失礼なこと言っただろ」  追求の声に素知らぬ顔をして廊下を進む。沈み込むような足音は、少しの距離を開けて後ろからついてきた。 「覚えるコツとかあるのか?」 「ありませんね。そもそも元々の脳のスペックが違うので」 「お前……本当不遜なやつだな」 「ですが、これまで博士が作った個体の識別番号をランダムに並べていると、聞いたことがあります」  沈黙が落ちる。ややあって長谷部は「ロボット馬鹿らしい」と、吐き捨てるように言った。苦々しげなそれは、どことなく笑みが覗いてるようにも聞こえる。  ダイニングを横切り、奥のキッチンへと向かう。作業台へ買い物袋を置いた長谷部は、トイレに行くと言って部屋から出て行った。扉の向こうに背広が消えるのを見送って、買った物の片付けに取り掛かる。  葉物類は野菜室、根菜類はパントリー、肉はパーシャル、買い置きの袋麺は引き出し。決められた場所へ、決められた物を収めていく。最後に残ったオレンジを手に取った時、視界に影がかかった。長谷部か博士だろうと、あたりをつけながら顔を上げる。瞳が人影を捉えた瞬間、声なき声が口からもれ出た。  陶器のような白肌の中で、淡い光を宿す瞳がこちらを見つめている。海と空の境界線のような、どこまでも透き通った青は、夕闇に染まりつつある室内で儚く、何も寄せつけぬように煌めいていた。 「……なんで」  思わず声が零れ出ていた。けれど、真白な少女は表情一つ変えないまま。痛いほどの静寂の中で、孔雀の羽のような睫毛だけが緩やかに上下している。  窓から差し込む光が室内を橙色に染め上げていく。夕焼けに浸される空間で、その白肌は幻のように浮かび上がって見えた。生活の匂いが漂う台所に、何も身に纏わぬ少女がいる様は眩暈がするほど倒錯的で、頭の芯が急速に熱で浸食されていく。何度瞬きをしてみたところで、彼女を構成する二色以外何も目には入らない。  手から零れ落ちたオレンジが、とん、と軽い音を響かせる。それが合図だったかのように、気づけば私は一歩踏み出していた。システムキッチンを回り込んで、震える足で彼女へと近づく。  距離を詰めた私を見ても、彼女は眉ひとつ動かさなかった。空っぽ。冠された名前の意味を、ありありと実感する。  迷い込んだ風が、白い髪を戯れに揺らす。波打つ横髪が瞳にかかり、離れてはまたかかってを繰り返す。明滅するように現れては消える青に、白波の立つ海が過ぎる。  体温は低いのだろうか。肌の質感は? 髪の手触りは? 次々と浮かぶ興味に、頭が独占されていく。手を伸ばせばわかること。けれど、金縛りにでもあったかのように、私の体は指一本動いてはくれない。見つめる瞳は、世界のありとあらゆる青を集めて濾過したように澄み切っていて。同じ高さにある、ただそれだけで、この体に生まれついたことに歓喜が起こる。  エンプティー。思わず零れ出た名前にのせた感情は、思慕なのか羨望なのか、嫉妬なのか驚喜なのか、自分ですらわからなかった。ただ、この目の前の存在を知りたいという欲求だけが、たしかに胸にあった。  何より美しい色が、白い瞼の向こうに消える。それが合図だったように、手は勝手に動きだしていた。小刻みに震え、進んでは戻ってを繰り返す指がようやく白に届かんとした時、扉が乱暴に開く音が響いた。  静寂を蹴破るような音に、慌てて部屋の入り口を向く。そこには、扉に手を突き、落ちた前髪の隙間からこちらを睨みつける長谷部がいた。
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