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「……何でここにいる」
地を這うような声が空気を揺らす。けれど、彼女は長谷部へ視線一つ投げかけはしなかった。形の良い瞳は、目の前の私すらも通り越して、どこか遠くを見ているように思える。
反応がないのは予想内だったのか、長谷部は驚いた様子もなく、キッチンへと進んでくる。けれどわかっていても苛立つものは苛立つのか、その足音は普段より荒々しい。
「おい、どういうことだ」
「私に聞かれましても」
傍までやって来た長谷部は、嫌悪以外の何物でもない視線で彼女を見下ろす。問いかけに首を横に振れば、長谷部はこれ見よがしに溜息をついた。使えない。そんな声が聞こえてきそうで、自然と表情が強張る。それでも、彼女へと視線を移せば、胸には鮮やかな波が押し寄せた。苛立ちも、怒りすらも飲み込むそれは、争いようのない恋しさで全身を包み込む。
腕が上がる。触れようとした手は、何より眩い白に届く前に、無骨な手によって阻まれた。問答無用で私の腕を引きずり下ろすと、骨張った手はすぐに離れていく。残る質感を振り払うように、長谷部は掌を宙で何度も振ってみせた。
「触るな」
大事な商品だぞ。何気なく落とされた言葉に目を見開く。研究所にいることを考えれば、容易に想像がつくこと。けれど、商品という言葉はあまりにも彼女に不釣り合いだった。彼女はどんな自分本位な欲望からも、金さえ積めば叶えられるような願望からも、一番遠いところにいた。
「……何の依頼ですか?」
「お前に言う必要が?」
疑問の形をとっていながら、それには有無を言わせぬ圧があった。視線を向ければ、得意げに顎を持ち上げる長谷部がいて、治っていた苛立ちが再燃する。
衝動に突き動かされるまま口を開く。普段なら顔色ひとつ変えず流せることが、彼女が絡むと途端に看過できなくなる。
けれど、意味のある文字列を紡ぐ前に、間延びした声によって言葉は喉奥へ滑り落ちていった。
「あれ、長谷部も来てたんだ」
耳馴染みの良いのどやかな声で言いながら、博士は足音高く私たちへと近づいてくる。
「来てたんだ、じゃねーよ。何でこいつがここにいる」
四角い爪の指先が彼女を指し示す。自分に向けられたそれを、彼女は瞬きひとつせず見つめた。
「何でって、もういい頃かなと思って」
自分より少し高い位置にある長谷部の顔を見上げた彼は、乾燥した唇に笑みを刷く。長谷部は額に手を当て、深々と溜息をついた。空気を震わすそれは、どこか諦めの色を滲ませていた。
「にしても、だ。わざわざ出す必要はないだろ」
「閉じ込めておけってこと?」
博士はわざとらしく肩を竦め、首を横に振って見せる。あり得ない。そんな声が聞こえてきそうな振る舞いに、長谷部はこれ見よがしに舌打ちをした。
「広瀬、わかってるのか?」
「何が?」
「こいつの依頼内容だよ」
依頼。そのたった一言に心拍が跳ねる。焼けつくような好奇心のままに目を向ければ、長谷部は忌々しげに顔を背けた。
場にそぐわない、朗らかな笑い声が響く。目を細めた博士は「当たり前だろ」と、笑みの隙間でいやに平坦な声でもらした。
「感情も意思も持たない。何も知らないし知りようのない、空っぽのアンドロイド」
でしょ? 尋ねた声は真昼の月よりも甘く、名残の雪よりも冷ややかだった。妖艶な美姫のように小首を傾げた博士は、一歩長谷部へと近づく。色黒の顔を見上げる垂れた瞳は、どこか煽るようでもあった。
「僕はちゃんとその仕様通りに作った。でも、実際にそうかはわからない」
「……天才研究者がやけに気弱だな」
「何せ初めての試みだからね。だから、検証する必要があると思うんだ」
険しい山の稜線に似た眉がぴくりと動く。腕組みをした長谷部は、眉を上げたまま続きを促した。その反応に博士は満足げな笑みをたたえる。
「誰と、どれだけの時間を過ごしても、決して変わったりしないという検証。納品して、後から不良品だったなんてことがわかったら、僕も嫌だしね」
そこまで言って、博士はこの部屋に来て初めて私へ視線を向けた。夕闇に沈む室内で、その色素の薄い目は輪郭を濃くして見える。
「その役目を、ソニア、君にお願いしたいんだ」
のどかな声は、無理強いする様子など欠片もなかった。きっと私が嫌だと言えば、彼はあっさりと引き下がるのだろう。けれど、首を縦に振る以外、私が選べる道はなかった。
瞬きのたびに、淡い白が、鮮烈な青がひらめく。その傍にいられるのなら、どんな物を捨て置いても構わないと、渇望よりも深く切実に思った。
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