蛇の花

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その指は、産毛を優しくなぞった。頬を掠めてから首筋を伝い、肩へと流れゆく。 そこでピタリ、と止まる。男が耳元で、低く囁く。 「後悔、してない?」 女はその言葉に、男の本音を聞いた気がした。 このまま先へ進めば、今まで選んできた道から大きく踏み外すことになる。 日常、平和、安定。それらを擲ってでも選ぶ意味があるのか、と。それだけの価値を自分に見いだしたのか、と含んでいる気がした。 その答えを出す事に、女は躊躇しなかった。 男の頬をなぞるように撫で、耳を食むようにして口づけた。 「後悔なんてない。私は今、私の本能に従っているんだから。 あの人は……理性で選んでいたの。地位、将来性、安定性、世間体。嫌だった、とは言わないわ。今までは今までなりに幸せだったもの」 「──それなら、どうしてそれを手放してまで?」 女は体を少し傾け、男の顔を抱き抱えた。 男の鼓膜が、初めて自分以外の鼓動で震える。 「──死ねば失うことだと気付いたの。 地位は生き死にの前に失うこともある。どころか、生殺与奪に繋がりやすいわ。 将来性なんて、今時はどうなるかわからないもの。あの人でもあなたでも、同じこと。 安定性は大切よ。大切だけど──金銭だけが安定していたって、心が荒んでいたら元も子もないわ。 世間体なんて持っての他、墓場までもつかどうかわからないものだわ」 「それで本能のままにって。 ……でも、僕たちの関係はわかっているんだよね?」 「えぇ。それでも私は、私が私で居られる人がいい。生活が苦しいのは嫌だけど、生きているのが苦しいのはもっと嫌だわ」 「──その選択が例え、罪だとしても?」 女は言葉を呑み込んだ。ここまでご託を並べてきたが、もうその必要もないと決めたのだ。 我が身に埋めた男を、もう一度抱き寄せる。皮膚と皮膚とが触れ合い、温もりが伝わる。 「…………そうだね、語るだけ不粋だ」 男もそれを察し、その手をもう一度、女の身体へ這わせる。熱をもって、その心を示す。 間違いだと、罪だと知りながらも、その男女は赤く熟した果実を互いに頬張った。 それはまるで、神話の原罪のように。
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