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きっとステキなマジックショウ
端末を投げ捨てようと右手を振りかぶって、力なく降ろした。
スーツはまるで、体にまとわりつく蔦のようだ。最悪の着心地。こんなものを、毎日着用している、だって? 信じられねぇよ。
ズリ、と壁に体を預けて座り込む。
ネクタイを緩めて、息を吸い込んだ。
「ゴホッ……。ホコリ臭ぇ……」
ごみ捨て場として活用されている以外、人が立ち寄らないビルの隙間は、影に飲み込まれている。
存在を失ったように静か。見上げた先には、長方形に切り取られた金色の空が広がっていた。
「あー、……ありえねえ」
気分は、路地裏に転がされた廃棄処分のロボットだ。使用の可、不可で分別されたパーツ。破壊された記録データは飛び飛びで過去を描く。
いっそ、すべて壊れていれば楽だった。自我そのものを破壊し尽くしてさえくれれば、望みはあったのかもしれない。
最悪の気分だ。
「ハハァン。ようやく、お兄さんもぼくの仲間入り?」
楽しげな声を、壁が跳ね返す。項垂れていた頭を上げると、数メートル先に金髪の少年が立っていた。
「……きみは?」
「やだなぁ、忘れちゃったの? ま、お兄さんが『寂しい』のはいつも通りだよね」
少年は一歩ずつ、ゆったりとした歩調で俺に近づいてくる。踏み出す度、がぽっ、と音を鳴らす革靴が少年の存在を誇張した。
「いつも通り、なのか……?」
背丈は小学校低学年ほどで、金髪は肩で切り揃えられていた。
泥汚れの残るよれよれのワイシャツと、多目に捲られたズボン。
座ったままの俺は少し顔を上げる形で、少年と目線を合わせる。
注視しても、少年との関係を思い出せない。
「改めて、初めまして。ぼくは単。ここ、エウヘメタルで盗みを働き生計をたてていた、なんてことのない生き物だよ。はい、握手!」
「お、おう……?」
初対面であることに安堵したのも束の間。無遠慮に右手を突き出された。流されるままに、小さすぎるその手を握る。握手というより、俺の手が一方的に包み込む形だ。
「俺は、えっと」
……自己紹介。単に差し出していた手と、目線が下がっていく。単の手を離し、代わりに空を掴んだ手の感覚に焦りが滲む。
「知っているよ。間明 晴間さん」
「どうして」
顔を上げた先には、にたにたと悪魔のような笑みを浮かべる単の姿があった。人差し指を口にあてた、内緒話のポーズ付きで。
「言ったでしょ。ぼくは盗みで生計をたてていたって」
最後まで言い終わるのを待たず、サーッと血の気が引いていった。
財布を探す。右ポケット。……ない。
「うんうん、勘は鈍っちゃいないみたいだ。誇ることでもないけど」
上機嫌な単の声が耳に障った。そこでようやく、単の手に何か握られていることに気づく。
「それ、財布……!」
単に飛びかかると、呆気なくかわされた。勢いそのまま、無様にへたり込む。
「返そうと思ったんだ」
悪びれる様子もなく手渡された財布は、用済みだった。くそ、と地面に吐きかけて、より一層虚しくなった。なんて日だろう。
「言っておくけど。ぼくは関係ないよ」
「そりゃあ、俺が路頭に迷おうと、きみには関係ないだろうな……」
「人を盗人呼ばわりなんてひどいや! 気持ちはわかるけど、そうじゃない。最初からなかったんだ」
白々しいにもほどがあった。信じてほしいという必死さも感じられない。趣味の悪いお遊びに付き合わされているようだ。
「なら、はみ出ているそれはなんだ?」
単の右のポケットには、紙幣が無造作に突っ込まれていた。十数枚の紙幣。お小遣いにしては、多額だ。
「見ての通り、ぼくの命だよ! 詳しく言えば、ぼくの小指だね!」
「は?」
訝しげに見ても、単は怯むどころか明るい調子で返してくる。
紙幣が、小指? 何を言っている? 理解が追い付かない。俺が何も分からないからって、おちょくっているのか?
「一文無しなんだろ? お兄さんも、やる?」
単がポシェットから取り出したのはナイフだった。刃先が金色に光る、果物ナイフ。持ち手には葡萄の彫刻が掘られている。
「なんだ、それ」
金ぴかだ。金持ちが道楽で作ったのではないかと言うほど、絢爛豪華。実用性をまるで考慮していないような作り。
引きつった笑いが漏れそうだ。悪趣味にも程がある。
「これは、人をお金に『換える』ナイフ」
「は?」
人を、金に? そんな訳があるか。人は、人。それ以上にも、以下にもなれない。
「……。危ないから、しまえ」
持っていたハンカチを単に差し出す。けれど、彼は微笑みを湛えて、静かに首を振った。
「ま、百聞は一見にしかず、だ」
言葉が耳に入ってから、止める間はなかった。ナイフが迷いのない、完璧な直線を描く。まるで、糸に引き寄せられているかのように鮮やか。
単は、事も無げに小指を落とした。
「おい……!」
背筋に冷たいものが駆け回った。でも、それは一瞬だ。怪我、救急車、止血。脳みそがあり得ないくらい回転して、次に備えようとしていたのに。
確かに俺は、見た。単の小指が。血液が。空気に触れて、落ちていく様を。
ひとたび瞬きをした先に広がっていた光景はどうだろう。キン、と甲高い音を耳が拾う。
落下した硬貨の金属音だ。遅れて、紙幣が舞い落ちる。
理解した瞬間、全身が粟立っていく。
──人の体が、金に変貌を遂げていた。
今度こそ、引きつった笑いが漏れた。
「マジックショー、か? 生憎、俺は一文無しでな……」
「体を張ってるでしょ? もちろん、高くつくよ。正真正銘、ぼくの小指だからね」
マジックじゃない、と単は両手を広げて証明する。どちらの手にも小指はなかった。
断面に目を凝らす。滴る血液は地面に落ちる度、甲高い音を立てた。
信じられるものか。マジックであってほしい。もはや、願いですらあった。息苦しい。
単の顔を見た。平然としている。なんで? 小指がなくなったんだぞ? 目線に気づいた単の口が弧を引いた。悪魔のような笑みだ。
「お望みなら、次は薬指を切り落としてみせようか?」
「遠慮するよ……」
「そう? 残念!」
受け入れがたい現実が立て続けに起こって、疲労が蓄積されていく。
どうして、こんなに小さい子が、指を切り落とさなければならない? 平然と切り落とす、直前。歯を食い縛った一瞬の様子を見逃していたなら、見え方も違っていたかもしれなかった。一瞬は永遠として、俺の脳裏に焼き付ける。
「……泣かれたら、どうしていいかわからない」
ぼたぼたと、昂った感情は涙へと姿を変えた。コンクリートに散らばった貨幣を濡らしていく。
困惑した様子で、単は眉を潜めて俺の顔を覗き込む。
「痛いの?」
「ああ、痛い」
「そう。……ぼくは、ちっとも痛くないんだ」
単は座り込むと、人差し指で涙の跡を塗りつぶしていく。
「だって、涙は一円にもならない」
じょり、と砂ぼこりが磨り潰される音が、静かな空間によく響いた。
沈黙に耐えかねた単は、「あのね、」と明るい調子で語り始める。俺を宥めるような、そんな懸命さで。
「あのね、お兄さん。ぼくは今が一番、幸せなんだ」
「は……?」
「人から盗みを働かなくていい。人目を気にしなくていい。人として、生きることが保証されている」
単の言葉は、異国のもののように聞こえた。今日、目覚めてからずっとこの調子だ。つながらない、なにもかも。実感が、ない。
「ナイフだけがぼくを、人であると証明してくれる!」
掲げたナイフは薄闇の中で怪しく煌めき、見つめる紫色の瞳が、爛々と輝いて魅せる。
単の瞳を映した瞬間、やっと血液が通い始めた感覚がした。
──その眼球に宿る、生きる希望とやらを打ち砕きたいと、願いが生まれた。
「違う。……違う」
誤っている。真っ向から否定すべきだと、全身の血が沸き上がっていく。
人から盗みをしなくていい? 当たり前だ。
人目を気にしなくていい? これも、当たり前だ。
人として生まれたのならば、当たり前に、人として生きることを保証されている。
「人は、人だ。それは決して、ナイフが決めることじゃない」
「ヒュー、かっこいいね。いつか見た、英雄みたいだ」
痛ましいほど、無邪気な笑顔だった。その裏には、どれだけの歪みが積み重なっているのだろう。
「良いよ、買った! 取引をしよう」
単は俺の胸ポケットからハンカチを抜き取った。人差し指を拭ってから、ナイフを丁寧に包み込む。ポシェットにしまうと、「よし」と満足げに笑った。年相応の幼さの残る笑みだ。
単は換わり果てた小指を拾うと、弾むように立ち上がった。声色は第一声のときのように、楽しげだ。紙幣を一枚残して、すべてポケットに押し込む。
「ぼくは、あなたの正義を信用する」
紫色のガラス玉は真っ直ぐ、俺を射抜こうとしていた。
ナイフよりもよっぽど鋭利に、俺の首に狙いを定めている。あまりの熱視線。切れ込みを入れられる前に焼け落ちそうだ。
「正義は、買うもんじゃないだろ」
当然、取引に持ち出されるものでもない。
「だから、約束をしよう」
スラックスのホコリを叩きながら立ち上がる。相変わらず、最悪な着心地だ。
「……お兄さんは背筋がピンと伸びていて、素敵だね」
太陽は沈み、月が街を照らす時間。それでも、単は目を細めて俺を見上げた。
「そのぐらいしか胸を張れるところがないからな」
「わかった。約束をしよう」
電灯は瞬きながら、俺らを照らす。
「小指を出してくれる?」
単の肩の高さに合わせて、小指を立てた右手を差し出す。単の白い手が伸びてきて、小指に触れた。温かい。確かに、血の通った人なのだ。
「ぼくには小指がないから、この紙幣をお兄さんに」
巻き付けられたのは、先ほど換えられた単の紙幣だった。
「指、切り、拳万、嘘、ついたら──」
リズミカルに紙幣が結ばれていく。軽やかな声が路地を通り抜ける。
「諦める気になったその時は、今度こそ一緒に、小指を切り落とそうね!」
幼い笑みの奥に隠された影は、どれほど彼を蝕んでいるのだろう。
「死んだら、御免……──」
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