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足元の地面は湿っているが、ぬかるんではいない。足をとられるような事はないものの、滑りはする。視界が悪いせいで突然目の前に木が現れるなんて事もあるため、男は慎重な足取りで森を進んでいく。
普通の森ではない。自然豊かな村で育ってきた男である。直ぐに違和感を覚えた。初めのうち、それは場所の特定できない痒みのようなものであったが、やがてその正体に気がつく。
この森には、音がないのだった。鳥の声も、木々の軋みや葉擦れ、風の音すらも聞こえてこない。ただ、男が踏み鳴らす湿った土の音、リュックや衣服の衣擦れだけが響いている。
不気味に感じた男であるが、そんな事で怖じ気づくわけにはいかないと、歩を進めていく。すると厚い雲のようなその静けさの中で、男の耳にある声が届いた。
「寒い。ああ。とっても寒いわ」
少女のようにも、歳を食った女のようにも聞こえる声である。
ーー味方とは、この声の事だろうか?
男は声に誘われて歩を進めたが、辺りに人影は認められない。
ーー誰かが立っていれば、この深い霧の中でも見つかりそうなものなのに。
更に辺りを探ってみるが、やはり人の姿はなかった。
しかしそこから動きだそうとしたその時、突然足元から声が届いた。
「止まって! 私を踏み潰すつもり!?」
男は慌てて足止め、その下を覗き見た。
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