9 タイミングゼロの着信

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 恋人がいるのかどうか確認していなかった。なぜかはわからないけど、一番に確認するべきその項目をすっかり忘れていた。郁登があの晩、案外、合意と思える感じで俺としたからって、それイコール、恋人がいないとは思わない。男なんだ、アルコールも手伝ってしまえば、その場の雰囲気でそういう関係を一晩だけ持つことは有り得る。もっと節操なしになれば、恋人がいようがいまいが二股くらいなら、簡単にしてしまう男もいる。  ただ郁登はそんな男には思えなかった。  教師っていう仕事に就いているからって事じゃなく。あの屈託のない、見事に日向で育ったって感じがする人間が、そう簡単に二股をするとは思えない。  それに、翌朝、俺に対してあそこまで、わかりやすすぎるくらいに慌てるんだ。嘘が上手にはとても思えない。  でも、あの女は恋人だった。  郁登が切なげに名前を呼んだし、向こうも車の助手席に、自分が待っている愛しい顔を見つけて、切ない眼差しを向けたから。 「はぁ……」  そして俺は「行かないの?」の一言を言ってしまった。こっちから郁登を行かせてしまった。え? って驚いた顔をして、それからまた彼女の顔を見つめて、俺にお辞儀をした後、車を降りてしまった郁登を、俺は見送ってしまった。  俺に「行くな」って言葉を言う権限はもちろんない。だから黙っているしか出来なかった。あの女のところへと歩いていく郁登を見送って、ふたりがその場で話をするのか、それとも部屋へと向かうのか、それを確認せずに道を曲がっていた。Uターンをしたら、バックミラーにふたりの姿が映るから、絶対に確認出来ないよう道を曲がっていた。  電話を掛けてきたのがあの女なら、苦笑いを浮かべながら、郁登はその電話を無視しようとした。喧嘩をしたのかもしれない。生まれて初めて、同性とセックスしてしまった罪悪感から、どこかぎこちなくなって、それを女の勘で察知された、とか。 「金沢先生、コーヒー飲まれますか?」 「!」  知らずにかなり考え込んでいた。頭上でいきなり声が聞こえたから、驚いて顔を上げると家庭科の及川先生が朗らかに笑っている。その笑顔に合わせるように、自動的な作り笑いでコーヒーを頼んだ。  すぐ後ろに彼女が立っていたのも気が付かなかった。朝一の職員会議が終わっていたのも気が付かなかった。 「……」  だって、隣の席に毎朝いるはずの、日向育ちの笑顔が今日はないから。朝、職員室に来て、いつもなら郁登がいるはずの時間になっても、席にはいないから、てっきり休みなのかと思った。その時点でまず気分が悪い。  自分がネガティブ思考になる人間だとは知らなかった。昨夜、恋人である、あの女とあのまま部屋に行って、仲直りの濃厚な一夜を過ごしたせいで、遅刻、もしくは欠席なんじゃ、なんてことを考えてしまったから。  ところが実際は、水泳部の朝練を見ていた時、トレーニング機器を誤って、足の上に落とした生徒を急いで病院に連れて行っていただけの話だった。そして「なんだ」って思いっ切り安心して、そして朝練にも出られるくらい早くに、学校に来ていた事を知って嬉しいくらいだったのに、またそこから奈落の底へ突き落とされる。  まるでジェットコースター。  慌てていた郁登はデスクの上にスマホを置きっぱなしにしていた。そしてそのスマホがブブブ、と無音のくせにやたらと、大きく自己主張をするから、自然と見てしまった。そこには“美里”と、昨日、郁登が呟いた名前が表示されていた。  仕事柄、朝だろうが、昼だろうが電話には出にくいのを知っているだろうに、それでも朝、その名前が二回も表示されるところを見なくちゃいけなくて、ひどく気分が落ち込んだ。  話したこともない、昨夜、ほんの一瞬見かけただけの女なのに、その女にものすごくイラついてしまう。最初の電話、昨夜の待ち伏せ、そして今朝、二回も掛けてきた電話。そのどれもが、タイミングが悪くて、そしてひどく我儘で強引な気がして、その印象がそのまま彼女自身の印象になってしまう。  もうそのデスクの上で振動する音も、美里っていう名前も見たくなくて、郁登の椅子とクッションの間に隠すようにスマホを置いてしまった。  それは俺のささやかな抵抗で、そしてなんて女々しいんだろうって、落ち込みそうになる。 「遅れました!」  ガラッと大きな音を立てて開いた扉、そしてコーヒーを運んでいた及川先生がちょうど鉢合わせて、お盆をぐらつかせながら上げた小さな悲鳴。 「すんません!」  顔を上げたら、そこには息を切らした郁登がいた。 「金沢先生、おはよーございます。昨日はすんませんでした」 「……」 「俺、スマホ忘れちゃって、って、あれ? え?」  息を切らして、頬を赤くしながら、セックスする以前と同じよう感じで、俺に挨拶している。きっと、朝のアクシデントのせいで色々と気にする事を忘れている。病院から学校に連絡するのに使おうと思ったスマホが、デスク上からも消えていて、慌ててポケットの中を探っていた。病院でも同じように探していた姿が簡単に想像出来た。 「椅子の下に隠したよ。何度か着信があって、バイブの音が目立ってたから」 「え? マジっすか?」  そしてクッションの下から、スマホを見つけると誰からの着信だったのかを確認していた。女々しい俺は、その画面を見ながら郁登がどんな表情をするのかを、じっと見つめてしまう。 「……」  疲れた表情をしていた。恋人からの着信がこんな朝っぱらっていうタイミングだったからなのか、いまだに喧嘩が継続中なのか、それとも単純に病院に行ったりで、忙しかったからなのか、疲れた顔をして、溜め息まで零していた。 「金沢先生ぇ、コーヒーどーぞ」  及川先生が甘ったるい声で横から割り込んでくる。この前、飲み会でアプローチを露骨にかけてきたのは、酔っ払っていたせいもあったからなのかと思ったけど、そうじゃないらしい。あの時と同じトーンで、職員室にはあまり似つかわしくない声が少し浮いている気がする。 「ありがとうございます」 「林原先生も飲まれます?」 「あ、あー……はい」  ハハ、と軽く笑うと、砂糖とミルクは? と訊かれて、頬をポリポリと掻きながら、「それじゃあひとつずつ」と答える。及川先生が頷いて、それに律儀に頭を下げて、新しくコーヒーを淹れにこの場を去った及川先生の後ろ姿を何も考えずに見ている。そして誰にも気が付かれないよう、隣の席にいる俺くらいしか気が付かない小ささで、溜め息をまたひとつ零した。 「金沢先生はブラック派なんですか?」 「ええ」 「苦くないっすか?」 「ええ」  まるで不味いものを飲んでいるって顔をしていた。ミルクだけを入れる事はあるけれど、砂糖は滅多に入れない。そりゃミルクも砂糖も入れる郁登には苦いかもしれない。 「いっくら入れても苦いから、俺、苦手なんすよ」 「コーヒーが?」 「缶コーヒーならまだいけるんすけど」 「……」  でもうちで朝食を食べた時もコーヒーを飲んでいた。同じように軽く笑いながら、頬を掻きながら頷いていた。  俺にしてみれば缶コーヒーこそ飲めたもんじゃない。まるで砂糖の固まりを飲んでいるような気がするくらい、甘いだけのコーヒー風味の飲み物だと思う。その甘い飲み物なら、かろうじて飲める、ってくらいならそれはコーヒーが苦手だろ。 「嫌いなの? コーヒー」 「あーアハハ」  また軽く笑った。頬は掻いていないけど、苦笑いでスマホをデスクの引き出しに入っている自分の鞄に押し込んでいる。 「じゃあ、なんで今、及川先生にコーヒーを?」 「いやぁ、そういうの断れないっていうか」 「けっこうですって言えばいいじゃん」 「あー……ですよねぇ」  今度は頬じゃなく、サラサラの茶髪をかき上げた。 「苦手なんすよ、断るの……」 「意外な感じ」  いつもはハキハキとしていて、受け答えも明るく、歯切れがいい。そんな郁登が断るって事が苦手だとは思わなかった。「いや、俺、いらないっす!」とか笑顔で言いそうなのに。つまりあの仕草は苦手なもの、遠慮したい事を断れなかった時の仕草って事だ。 「金沢先生っていっつも優しい感じなのに、そういうとこはっきり断れるんすか?」 「だって飲みたくないもの、飲まないじゃん」 「酒も?」  そりゃそうだろ。自分の飲める量を超えて、飲んでたら大変な事になる。「いりません、けっこうです、いやです」って言えばいいだけの話だ。 「金沢先生!」 「え?」  いきなり身を乗り出してきて、何かを思えば、切実そうな顔をアップにして「相談が……」なんて、言われるなんて思っていなかった。そして、これがれっきとした男相手なのに、さっきまでの憂鬱な気分も吹っ飛ぶくらいに、その相談事に内心はしゃいでいる自分を発見して、こっちはこっちで、ハハ……と力なく笑いそうになっていた。
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