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日暮れ前に帰宅した。
釣ったウグイを土蔵の南の錦鯉の池に放し、板の間の北側の外の土間の壁際に釣り竿を立てかけた。
この土間の北側にも大きな池があり、こっちには色鮮やかな錦鯉がたくさんいる。だけど、釣った魚は土蔵の南の池に放している。その理由はよくわからない。
父は、色鮮やかな錦鯉と川魚を同じ池に棲まわせたくなかったのだと思う
夕飯のあと、ひとりで風呂に入った。あれほど興味を持っていたタタキ釣りに興味を無くしたのはなぜだろう・・・。
渓流に潜って石の下で婚姻色のウグイの集団を見ていたときや、浅瀬の川底で石の色に擬態していたカジカを見つけて、その泳ぎと移動を観察したときは知らないことを発見して、なぜだろうと思う気持ちがぼくの中に溢れ、つぎに何をしようかと思いながら興奮しているぼくがいた。
だけど、タタキ釣りの道具ができあがり、魚を毛鉤で騙して釣るのがわかると、なんとなく魚に悪いことをしている気になっているぼくを感じないわけにはゆかない。
ぼくにとって、釣り自体、どうしてもそれをしなければらない理由はない。釣った魚を食べるのでもない。川魚のマニアに売るのでもない。釣ってきて土蔵の南の鯉の池に放すだけだ。
この釣りってなんだろう。魚を池に放すだけなら、釣った魚を持ちかえる必要なんかないはずだ・・・。
TVで、カナダのマス釣りを見たことがある。釣り人は小さなマスを持ち帰らずに川に放していた。キャッチアンドリリース。
大きなマスをどうするかというと、家に持ち帰り、ソテーにするという。日本とカナダの食べ物のちがいらしい。
湯船に浸かっていろいろそんなことを思っていたら、ぼくがやっている釣りは単なるコレクション、興味を持ったことを一つ一つ確かめているようなものだと感じた。だから、タタキ釣り(テンカラ釣り・和風フライフィッシング)のことがわかってしまったら、釣りその物に興味が無くなったのだと・・・。
ぼくはこのとき、僕自身の性格を理解していなかった。
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