3708人が本棚に入れています
本棚に追加
*** 来客 ***
「はぁ……」
客のいない『エデン』に俺のため息が響く。
「何回目のため息だよ」と、昌幸さんもまたため息をついた。
「楽ちゃんと喧嘩したとは思えないんだけど?」
「しませんよ、喧嘩なんて」
「じゃあ、なに?」
「楽久に楽を独り占めされてツラい……」
カウンターに突っ伏す。
「欲求不満か。やめてくれない? 独り身には贅沢な悩みでしかないけど」
「独り身って……」
楽久が一歳になった頃、昌幸さんの弟の昌臣くんが大学を卒業し、東京の企業に就職した。
『エデン』にいる時の彼はおちゃらけた若者でしかなかった昌臣くんだが、実はかなり優秀らしく、すんなりと大企業に就職を決めた。
その時に知ったのだが、昌幸さんも三年前までは東京の大手企業に勤めていたという。
が、おばあさんが他界し、この店を継ぐためにあっさりキャリアを捨てて帰って来た。
聞いた時には、驚いた。
昌幸さんが勤めていたのは、明堂貿易も取引のあった日本有数の製薬会社。
そこを辞めてレトロな喫茶店の店主になるなど、普通では有り得ない転身だ。
「昌幸さんは、いつまで彼女を待つんですか?」
「ん? なに、藪から棒に」
「いや、なんとなく……」
昌幸さんには待っている女性がいる。
詳しい事情は知らないけれど、それだけは教えてくれた。
『愛する女性がそばにいることは、当たり前じゃないよ』
そう言った昌幸さんの寂しそうな表情に、胸が締め付けられた。
「まぁ、でも、その様子だと、相当参ってるみたいだね」
香ばしい香りに顔を上げると、昌幸さんがコーヒーを淹れてくれていた。
俺用のカップを差し出され、一口飲む。
「松尾さんにお願いして、二人の時間を作ったら?」
「ただでさえ、仕事の時は預かってもらってるから、申し訳ないって」
「楽ちゃんらしいね」
昌臣くんが就職するタイミングで、楽がアルバイトとしてこの店に戻った。
とは言っても、ランチタイムの十時から十五時までで、楽久の機嫌を見て都合が良い時だけでよいと言われている。
けれど、責任感が強い上に、仕事が性に合っていて楽しいと言う楽は、基本的に週五日、きっちり働いている。
もちろん、その間は俺が楽久と一緒にいるのだが、どうしてもその時間に仕事をしなければならない時は、松尾さんに楽久を預かってもらっている。
松尾さんは本来、兄さんとこの双子のシッターなのに、楽久の世話までは本当に申し訳ないと楽は気にしていた。
当の松尾さんは、「楽久ちゃんはとってもいい子だから、全然大変じゃないのよ」と言ってくれているが。
祖父母を知らない楽久にとっては、松尾さんと聖先生がそれのようなもので、二人も楽久を孫かひ孫のように可愛がってくれている。
どうしても楽久が楽と離れたがらない時は、こうして俺が代わりに来ている。
俺もまた、学生時代のバイトを思い出して楽しんでいるし、在宅での仕事ばかりでは身体が鈍るからちょうどいい。
最初のコメントを投稿しよう!