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粘度の高い空気がぼわりと渦を作り、俺の存在を防音室の中に運ぶ。それよりも早く気配に気付いた様子のジロが、剣呑な視線で俺を見る。
「テトラ!お前、入ってくんなよ!」
この頃のジロはちょっと反抗期だ。うんうん、その反応はよくわかる。でもね、勝手に入ったのは俺じゃないんだ。
「ジロじゃないベースの音がしたから。兄ちゃんにも、幸せお裾分けしてよ…?」
作り笑いのまま、ちらりとその音の主を確認する。
ふうん、こういうの、好みだったか。肩まで伸ばした黒髪と黒目がちな二重、唇が綺麗な、清楚で可愛らしい女の子。この場所が俺の大事な庭でさえ無かったら、大歓迎なクオリティ。ジロはよく食べないで我慢したね?というか、だからここじゃなくて2階連れて行けって。ヘタレか。
しかもこの子はどうやら、俺が笑顔をくれてやってるのに、歓迎してないことを本能的に気づいている。珍しいね、女の子なら大体、煙に巻けるのに。
「良いんだよ、恋は音になる。」
「意味わかんねぇこと言ってんなよ!!!」
ジロはうるさいな。お前に話してるんじゃ無いんだよ。
無言で睨みつけてくるジロに、微笑みを返す。
…お前わかってんだろうな?この庭が、俺にとってどれだけ大事か。俺と、お前にとって、どれだけ大事か!
ブツっ…
自分の血管が切れたかなと思ったら、アンプのノイズ音だった。バッと音のしたほうを振り向く。
「あっ……ごめんなさ……」
「名前は?」
「えっ」
「名前。あるよね?」
何故か、名前を聞いていた。俺の知ってる女とは、どうやら違うみたいだから。
「も、ももか……です。」
その子は、怯えたようにベースを抱えながらそう答えた。はぁ。一応、ジロより前に、ベースを好きではある訳ね。……だとしたら余計、才能無いから止めておけ。君は可愛いんだから、こんなことしなくても、ジロなら抱いてくれると思うよ。
そんな気持ちを、全部包んで嫌味に託す。
「ももかちゃん、ゆっくりしてってね。必要ならいつでもレコーディング手伝うよ、じゃね。」
「ふざけんなお前いい加減にっ!…!!」
ジロがわぁわぁ叫んでいるのは全部無視して扉を閉めた。
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2階の部屋で出来る分のトラックを書き出していたら、いつだか二人の気配が消えた。帰ったのだろう。
俺はすぐにあらゆる機材を防音室に運び込んで、作業環境を整えた。少しだけ桃のような残り香がする。俺はそれをかき消すように、ギターの音録りを始めた。
他のことは何も覚えていないくらい、澄んだ集中だった。
しばらくして防音室に帰ってきたジロは素晴らしく不機嫌だったが、並ぶ機材を見てもそれほど多くを口にしない。俺はそれに気を良くした。
いますぐ、ジロのベースの音が欲しい。
ジロはその期待に応え、そしてまんまと煽られた。音楽に、戻って来た。
2人での作曲活動は、翌朝まで続いた。
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