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それにしても、他の生徒たちをここまで怯えさせる、“矢島”という高校生はどんな男だろう。
ドがつくほど田舎で、全校生徒が180人しかいなかった自分の高校時代や、息子たちの卒業した進学校では、そんなやつはいなかった。
無論他人事である小林はどこかわくわくした面持ちで、噂の少年を探して外を見回した。
「……停学?そんなの怖がるタマかよ」
どこからか潜めた声が聞こえてきた。
「そんなんだったら、前の高校だって、退学になってねーだろ。なあ?」
バンと、出入り口のドアに白い手が突いた。
慌ててボタンを押しドアを開くと、噂の男子生徒があたかもダルそうに重たい足取りで乗車してきた。
てっきり某漫画の雑魚キャラのように筋肉隆々でこん棒を振り回しているような男を想像していたが、目の前の彼は全く違った。
背は170あるかないかで、他の男子生徒同様、どちらかといえば今時の華奢な体つきだ。
違うところと言えば、ひと目でアイロンを当てていないとわかるワイシャツ。両手をポケットに突っ込んだスラックスの裾は何重にも折られていて、細い脹ら脛が見えている。
脱色を繰り返しているのだろう明るい癖毛は、ところどころ金色が混ざっていた。長い前髪の向こうで、意外に端正だとも言えなくはない顔が、つまらなそうに表情筋を凍らせている。
「こら。矢島君。10分の遅刻。これからは時間厳守ね?」
女教師が形だけ、というように少年に言ったが、彼に瞳だけで一瞥されると、途端に目をそらした。
車内は異様な緊張感に包まれた。
だが、小林から見た彼の印象は、不良やヤンキーと言う言葉はしっくりこない。
そうだ。
先日見た動物保護団体のドキュメンタリー番組を思い出した。
その中に出てきた、虐待されて育った犬の、牙を剥いた表情に似ている。
裏切られ蔑まされてきた、人間を信じることを止めた、あの目。
沈黙が広がる車内を、少年がスタスタと歩く。他の生徒に比べて明らかに少ない荷物を引きずりながら、一番奥の長席に座ると、一度大きく首を回し、すでに隣に座っていた気弱そうな眼鏡の少年に顔を寄せ、何かを耳打ちした。
少年の顔が青ざめるのと、女教師が立ち上がるのは同時だった。
「はい。全員揃ったので出発します。それでは運転手さんにご挨拶しましょう。よろしくお願いします!」
続いた生徒たちの声はまばらで元気がなく、これから始まる夏期講習の憂鬱さで淀んでいた。
苦笑しながらギアをエンジンに入れる。
バックミラーで立っている生徒がいないか確認する。
と、なぜか腰のあたりから肩にかけて、痛いほどの悪寒が走った。
思わず振り向いて、今度は目視で車内を確認した。
こちらを見ているものはいない。
気のせいだろうか。
いかん。集中しなければ。山間の林間学校までは、休憩を挟んで二時間半はかかる。
一呼吸置いてから、バスを発進させた。アクセルを踏み込むと、先程まではうるさいほど聞こえていたセミの声が全く聞こえなくなっていた。
小林勇太郎。彼は二週間後、マスコミに囲まれることになる。
日本中を震撼させる殺人事件の、加害者と被害者を乗せた、バスの運転手として。
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