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母に聞いてみたのは高校2年生の時。
私の血液型はO型、これは小学校の頃に何某かの検査を行ったために、知っていたのだが、特に気には留めなかった。血液型占いが流行った時に、口に出したくらいか。
高2の時、私が通う学校に献血ボランティアのバスがきて、採血をした。その結果通知を受け取った時に、「?」が頭に浮かんだ。
「ん? お父さんはABで、お母さんはOだよね? これはないんじゃない の?」
そんな具合だ。すごいショックだったかと問われると、ショックではあったが、凄くはないといったところ。私には前々から疑問に思っていたことがあったから。
母は私が赤ちゃんの頃から、中学の入学式まで、私の写真を撮りまくった。そういう人なのだ。小学生の頃、母親から「優ちゃん、こんなに可愛かったんだよ~」っと、幼少時の画像を何度となく見せられた。母はスマートフォンで写したものを、デスクトップで管理し、更に記憶媒体に保存。子供の頃の私がいっぱいパソコンの中に溢れている。
けれど、生後間もない頃の私の写真、一緒に写っているのは母と母方の祖父母なのだ。父が現れるのは、3歳か4歳? それ以降、幼稚園の催しや、七五三、家族旅行、運動クラブのイベントなどに父とも写っている。まぁ、私単独か(母が撮影のため)、母と二人で写っているのが圧倒的に多いのだけれど。
違和感はちょっとだけ、実は感じていた。だけど、それを両親や祖父母に尋ねることには、子供ながらにためらいがあった。それはしちゃダメな気がした。私は母も父も大好きだったし、父は母以上に私に甘い。
「優ちゃん、可愛いね」「優ちゃん、すごいね」「優ちゃん、気をつけてね」、たぶん、「可愛い、すごい、気を付けて」の3大用語が父から私に向けられた言葉の半分を占めるのではないか。私も父のことは好きだし、不満なんてない。巷で言われる思春期における父親への反発のようなものは、私には存在しなかった。
*
「お母さん、ちょっと聞きたいことがあります」
「は? なによ、あらたまって?」
問えなかった言葉を、口に出す勇気が出たのは大人に近づいたからかな?
『馬鹿なこと言わないの』って怒られるなら、それでいい。このモヤモヤが消えるなら。
「あのですね、聞きたいのは・・・お父さんって、本当にあたしのお父さん?」
「え?」
この時の、母親の驚いて止まった表情を私は一生、忘れないと思う。
固まるっていうのはこういうことか。
間があって、母が応える。
「どうしてそんなこと聞くのよ? 何かあった?」
「え、だって、そんな気がするから」
考えてみれば、血液型の問題なんて、父と母の二人で話を合わせておけばよいのに。
写真だって、4歳以降の家族そろった写真から見せればいいのに。
問いただしておいてなんだけど、このルーズさは、この父母だからのものですか。
「そうね、血はつながってないけど、お父さんはお父さんでしょ」
「はい・・」
あ、すんなり認めた。さすが母。ストレートな人なのだ。
「何よ? 誰かから何か言われた?」
私は首を振る。そうか、やっぱり本当の父親ではなかったのか。私がもっと幼い頃から、なんとなく抱いていた違和感は正しかったのだ。
「4歳になる前に再婚したのよ、もう何年だろ? 12年? そうね、もう13年か。何かあった? お父さんはお父さんだからさ」
「うん、そーだね。お父さんはお父さんなんだけどさ」
求めていた答えをちゃんと与えられたけど、全くオブラートにくるまれないのもいかがなものか。ちょっと、心臓がドキドキした。これで、私に兄弟とか存在するなら、漫画やドラマの世界だ。
この後、私は母に血液型のあるべきパターンの話や、子供の頃の写真についての話をした。20時近くで、父が帰宅する時間が迫る。
父とは血の繋がりがないと告げられた私は、もうひとつだけ、どうしても聞かなくてはいけないことがある。
「ねぇ? 本当のお父さんには会える?」
「無理。どこにいるのか知らない。もう15年以上会ってない」
「・・・・・・・」
この後の母の話はちょっと長かった。ようするに、子供だけ作って逃げちゃったということだ。なので養育費も何ももらってないとのこと。『お父さんがあなたのお父さん』だと、母はもう一度、その言葉を繰り返した。
「お父さんは、成人したら言おうかなぁ、なんて言ってたのよ」
「そうなんだ」
「何かあったわけじゃないんでしょ?」
「ないよ、別に。昔から何かちょっと違和感があったから、聞いてみただけ」
「お父さん、今、お店を移動して大変そうだから、その話、ちょっと後にしてよ」
父は書店に務めている。毎朝8時には家をでて、夜20時頃に帰宅。土日も同様で、平日の火曜か水曜に休みを取っていた。
「え? いやぁ、別に。何かお父さんとは話しようがないなぁ。え? あたし、これ、何て言うの?」
「知らないわよ。お父さんはお父さんだから、あなた普段通りにしなさいよ。言いたいことがあったら、お父さんの仕事が落ち着いた頃にしてあげて」
「え? うん、わかった・・」
とは、こたえたものの、『言いたいこと? え? 本当の子じゃないのに、16年ありがとうございました、これからもよろしくとかっていうのか?』
私は、この日の、この後のことを覚えていない。父をどうやって迎えたのか。
「お帰りなさい」って、私、ちゃんと言えたかな? この日のことは、母との会話だけしか覚えていない。
*
成人して以降も、父から親子関係に関しての話はない。でも時折、父が何か言いたそうだなと、感じる時はあった。私からは何も言わなかった。何というか、何て言えばいいのかわからなかった。母が『もう言っといたわよ』みたいな、そんな軽い感じで、父に伝えてくれているのではないかと、期待して。
私は大学を卒業してから、都内で一人暮らしをしている。私が母に問い正してしまったあの日から、もう10年が経っていた。
今日は、実家近く、所沢の防衛医大に入院した父への見舞いを終えて、久しぶりに実家に戻ったのだ。
「よかった、よかった、元気そうで」
父が入院して手術を受けると聞いた次の日は、いまひとつ仕事が手につかなかった。癌は初期のものだから大丈夫、がん保険に加入しているから、費用の面も問題ないと、母から聞いてはいたが、父の顔を見るまでは落ち着かなかった。
「ありがとね。優ちゃん来てくれたから、喜んでたね。本読むしか、やることない、お腹減った、それしか言わなかったから」
母は父が入院して、七日間、毎日、お見舞いに通っていた。こういう時、二人は仲良いなあとつくづく思う。私は大学を卒業する22歳まで、自宅に居たわけだが、父母が喧嘩らしい喧嘩というのをしているのを見たことがない。父が不機嫌になり、部屋にこもって出てこないというのが年に数回あるくらいだった。
書店の小売店に勤めていた父が帰宅するのは、毎日20時頃。これは、私の記憶が残る小学校時代からずっと。土日は仕事で家に居たことはなく、平日、火・水のどちらかが休みと言うパターンを繰り返していた。
小中学生の頃、毎週火曜の夜は外食というのが我が家の定番。高校生になると、帰りが遅くなったこともあり、月に一度のイベントになってしまったけれど。
家族で長期旅行などのお出かけがなかった私のうちは、「外食」というイベントが頻繁に行われた。これは食いしん坊の母親のせいかな。お寿司、とんかつ、ステーキ、イタリア料理、フランス料理、インドカレーなどの専門店から、近くの老舗の洋食屋さん、パスタに中華料理にラーメン、お蕎麦屋さんetc....。母親と私は毎週どこに行こうか嬉々としていた。父は私たちの希望を通す。父から「ここへ行きたい!」って言うのを聞いたことがない。ん? そう思うと、そんなに食べること好きじゃない? いや、お酒もほとんど飲まず、タバコも吸わない父は、お菓子やアイス、ケーキなどのデザートも楽しみにしていた。そうだ、父は好き嫌いがない。出されたものを、基本、残さず全て食べる人だ。その辺り母とは異なる。母は食べるの大好きだけれど、苦手なものも多い。父のお皿にスッと苦手なモノを載せるのを見慣れていたから、私も嫌いなモノは父に了解を得ることもなく、お箸でスッと、父の皿に移していた。
「お父さん、元気になったら『バジリコ』行こうよ」
そこは老舗の洋食屋さん。子供の頃からのお気に入り。今や3代目が中心で営業していて、去年、外観をリニューアルした。
「そうねー。ああ、夕ご飯、『バジリコ』でいいじゃない。今、お母さん、あんまり買い物してないのよね」
あら、久々に戻ったから母親の味をちょっと、楽しみにしていたのですが、まぁ、いいか。
実家にはお正月に戻って以来だから半年ぶりだ。我が家はやっぱり落ち着くなぁ、なんて言いながら新聞に目を通していた。
母は取り込んだ洗濯物を折りたたんでいる。
「お父さんね、経済的なこともあったけどさ、何より今が変わったら嫌だって言ったのよ」
「ん? なにそれ」
唐突な母の言葉の意味がわかりにくかった。
「結婚する時にね、お母さんと子供ができたら、優ちゃんと差別したら嫌だって、子供はやめようって言ったのよ」
「・・・ふーん」
「自分の子供が生まれて、あなたを虐待とかしたらどうしようって、思ったんじゃないの?」
「えー。あたし、あんまり怒られた覚えもないけど。っていうか、兄弟ほしかったなぁ」
「ねー。お父さんってそういう人なのよ」
そうか、そういう人か、父は。
ずっと当たり障りのない話題で、父娘の会話は成り立ってきた気がする。元気になったら、いろいろ聞いてみよう。聞いておくべきだと思う。父からコブつきの母との結婚のなれそめを。恥ずかしがって、言葉を濁すような気がするけれど、絶対に聞き出してやる。
そして今、付き合っている人にも会ってもらおう。
END
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