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――1年後
佐伯家とその周囲は、以前と同じ平穏を取り戻していた。いや、以前よりも穏やかな空気が流れているのかもしれない。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい!」
こうして、出かける智弘に美穂と優奈と産まれた1歳の次女・陽奈が3人揃って『いってらっしゃい』を言う風景に変わった。
以前は仕事の事で頭がいっぱいで憮然としたままだった智弘の表情も、次女の出産以降はどこか柔らかくなっていた。
「今日は早く帰る。スーパーで買うものがあれば、夕方に連絡してくれ」
「ありがとうございます」
こうして、週に1~2回は定時で帰り、スーパーに寄って行くという習慣ができていた。美穂が何もないと言っても、買い置き品の補充をするというような気の利かせ方をするようになったことも含めて、大きな変化だ。
一度、智弘一人で優奈と陽奈を連れて買い物に行き、その大変さを痛感したからこその変化だ。
一度は経験してみる。智弘があの出来事以降、心掛けるようになったことだ。
そして変化は、家庭のみならず、会社でも起こっていた。
******
半年の育児休暇の後、智弘は無事に職場復帰を果たした。
その間、香川が代理でシステム1課の課長となっており、メンバーを統率していた。休暇に入る前には泣きつかれてどうなる事かと智弘は案じていたが、半年も経てば顔つきが変わっていた。
大規模案件のリーダーを経験し、部下を率いる立場になった香川は、帰ってきた智弘にもう泣きついたりはしなかった。
以前と違って、美穂の体ではないのだから今なら抱き着いて来ても良かったんだが……と、智弘は少しだけ残念に思っていた。
そこまで成長した香川を追い落とすわけにはいかないと、智弘は課長にはならなかった。その代わりに副課長という役職を設けてもらい、香川の補佐とメンバーの統率、両方を担う役割についた。
部長は智弘を再び課長に据えようと考えていたようだが、こちらの方が全員を安心させる事が出来る最もいい立ち位置だと、力説して説き伏せた。部長も橘も、もはや苦笑いをして反論をしようとしなかったのは言うまでもない。
そして、以前と変わったことがもう一つ……
「わぁ、佐伯さん。愛妻弁当ですか?……でもなんか、ちょっと……」
いつもの大会議室で、総務部の相沢がうきうきした様子から口をぼそぼそとすぼめていった。
復職後、智弘のランチ事情も変わった。以前と同じように外に食べに行くこともあったが、週に何度かはこうして弁当組に混ざるようになった。一緒に弁当を囲むのは、勿論、以前からの弁当仲間である相沢と島田だ。
仏頂面の男性社員とかしましい女性二人が並んでいる構図は社内でも珍しかったが、本人たちは慣れ親しんでいたせいか、すぐに以前と同じランチタイムに戻っていた。今もこうして、相沢は何の抵抗もなく、智弘の手元を覗き込んでいる。
「これは手作りではあるが、美穂が作ったものじゃない」
「え、篠塚さんが作ったんじゃないんですか? じゃあ誰が?」
「俺だ」
「え!?」
相沢は、大げさなほどに大きな声と身振りでたじろいだ。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「だって佐伯さん、料理できないって言ってませんでした?」
「そうも言っていられないだろう。美穂は離乳食で大変そうだから、毎回ではないが俺も夕飯を作るようになったんだ。そのついでに弁当のおかず用に少しより分けているだけだ」
「へぇ……合理的」
「まぁ、美味くはないがな」
どれどれ、と言う相沢に卵焼きを一つ分けてやった。口に入れた相沢は、一瞬のうちに眉間に皺を寄せた。
「感想は言わなくていい」
「……はい」
相沢はついに大人しく自分の席に戻り、弁当箱をつつき始めた。
相沢が静かになった分、室内はほぼ無音状態に戻ってしまった。そのせいか、隣に座っていた島田のため息が大きく響いた。
「どうした? 午後からの事が不安か?」
「え」
島田はぴくりと肩を震わせた。そして、何も言わず、視線をうろうろとさ迷わせた。『不安だ』とは言えないが、その気持ちは否めないようだ。
智弘には、その気持ちがよくわかった。
おそらく相沢よりも、理解できていることだろう。だから、静かに告げた。
「大丈夫だ」
うっすら目尻を滲ませた島田が、おそるおそる智弘の方を見た。智弘を疑っているわけではないが、それでも不安はどうしても拭えないのだ。
「大丈夫。君が思っていることを、きちんと話して大丈夫だ。俺がそのようにサポートする」
「あ、ありがとうございます……」
島田は、妊娠していた。
付き合っている恋人との間の子だ。未婚のまま妊娠してしまったことの引け目と、突然の体の変化に対する戸惑い、そして、これから自分の仕事環境がどうなってしまうのかという不安、すべてが綯い交ぜになっている状態だった。
そんな島田が会社と今後について話し合う際に、智弘が付き添うことになっていた。それが、今日だ。島田の胸中には、それらの不安に加えて緊張までが加わって、とても昼食どころではないようだった。
だが智弘は、先ほど自分で”不味い”と評した弁当をガバガバ食べた。今日はこれから決戦だ、と言って。
「あはは、佐伯さん頼もしい! 島田さんもそんなに心配しなくて大丈夫だって。こうして強力な味方がいてくれるんだからさ」
「あの、すみません。課も違うのに、巻きこんじゃって……」
島田は申し訳なさそうに俯いた。智弘は、大きく首を横に振った。
「何を言う。申し訳ないことなど一つもないんだ。堂々としていろ」
「申し訳ないのは……申し訳ないです」
「この少子化の折に一人でも子供を産もうというんだ。これだけ世に貢献していることがあるか」
智弘はそう言うものの、やはり島田が妊娠を告白してすぐの、皆から向けられる視線は温かいものばかりではなかった。長期で休むことになるであろう彼女への悪感情が見て取れるどころか、隠そうともしない者までいた。
それを見た智弘は確信したのだった。
こういった空気を変えていくことこそが、美穂が言っていた自分の役割なのだと。
智弘は、もう一度頷いた。島田を力づけるため、勇気づけるため、そして何より『申し訳ない』という言葉を言わせないために。
「任せろ。俺は、男の立場も妊婦の立場も経験した、最強の人間なんだからな」
完
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