とある婦夫(ふうふ)のトツキトオカ

49/52
71人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ
 何を言い出すのか。そう言おうとして失敗したように、美穂は口をぽかんと開いたまま表情が固まっていた。 「いや、その……一昨日助けてもらった時にプログラムソースを見て、十分戦力になると見込んだんだ」 「ああ、あの時……」  あまりの疲労ぶりを見かねて、美穂が手伝った時のことを智弘は言っていた。だが美穂にとっては見様見真似だったので、そこまでの高評価に値するものとは微塵も思っていなかった。  だが智弘は適当な嘘やおべっかなどとは縁遠い人間だ。美穂が一番よく知っている。  だからこそ、今の誉め言葉も、心からのものだと理解していた。だから余計に混乱していた。 「いや、でも……現場を離れて随分経ちますし、知識もあやふやで……」 「この前勉強していたろう。技術書を何冊も読んでいたじゃないか」 「あれは……ちょっと懐かしくなって」 「最新のバージョンの試験問題集もあったぞ」 「今はどんな風かなと……」 「以前には触っていなかった言語の本もあった」 「……」  徐々に逃げ道を塞がれるように、美穂は言葉を失くしていった。  困っている風ではないが、どんどん俯いていった。恥ずかしそうに。  何を恥じているのか、智弘にはまるでわからなかった。自分の妻が凄い努力を積み重ねているというのに、何故おかしなことだと思うのか。  そう思った智弘は、美穂の顔を上げさせようと、言葉を紡いだ。 「本当は、仕事に戻りたいんじゃないか?」 「……え」  美穂は目を見開いて智弘を見つめ返した。何に驚いているのか。心外なことを言われたのか。それとも内心を言い当てられたのか。 「俺や周りが、お前に仕事を辞めさせてしまったんじゃないか?」  美穂の眉根がきゅっと額に寄った。  今、話すべきではないかもしれない。だが智弘は、このもやもやした空気のまま、もはや話を治められなかった。 「女性は、どうしても出産をする立場だ。最も危険で苦しい思いをする。だから周りだって気遣う。だがそれと同時に、母親という重責を簡単に押し付ける。そして、それまで背負っていたものを、当然のように降ろさせようとする。本人の意思にお構いなく……」  智弘の、膝に置いた掌にぎゅっと力が籠った。  社の人間に言われた事、客先で向けられた視線、それらに何度も歯痒い思いをした。悔しい思いをした。  だが同時に、これほどの思いを妻は経験してきたのかと思う方が、ずっと悔しかった。 「誰しも選択肢はあって然るべきだ。それなのに、あの時のお前には選択肢がなかった。なくしたのは、俺や橘や周りの人間だ」 「だから智弘さんが、選択肢を増やしてくれるんですか?」 「ああ。出来る限り」  智弘が頷くと、美穂は静かに俯いた。眉根を寄せ、唇を引き結び、じっと考え込むように目を伏せている。  今更、遅い――そんな罵り文句さえ言われても仕方がないと、智弘は思っていた。  美穂が笑っているから何も問題などないと思い込んでいた自分を、自分自身が殴ってやりたい気分だった。  美穂は目を開けて、静かに智弘を見つめると、拳を振り上げる……ようなことはせず、ただにっこりと笑った。 「智弘さん、私がどうして辞めたのか、わかりますか?」
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!