1.悪夢のはじまり

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1.悪夢のはじまり

28歳。これまで生きてきて、いろいろなことがあったが、今日ほどにひどい一日がかつてあっただろうか。 悪夢は、朝、携帯に凛奈からメールが入っているのを発見したところから始まった。「はるちゃん、おはよう。話したいことがあります。今日の夜8時、いつもの喫茶店で待ってます。」 嫌な予感がした。もう3年の付き合いになるが、彼女が自分から連絡してくることはこれまでに片手で数えるほどしかなかった。それに、含みを持たせた「話したいこと」という響きには、どこか別れ話の予感が漂う。 彼女に一目ぼれしたのは高校時代。それから何度となくアプローチを続け、やっと付き合うことになったのが3年前。それでも、無理やり付き合っている状態で、彼女と手をつないだことも、もちろんその先も経験したことがない。当然だ。彼女の凛奈は春臣と出会うずっと前から、幼馴染の女性に思いを寄せているのだから。それでも高校時代に知り合ってからずっと、彼女への気持ちをあきらめきれずに、ずるずると片思いを続け、「男除けとして使っていいから」と半ば強引に説き伏せて付き合い始めた。でも、春臣がいくら思いを寄せても、凛奈が思いを返してくれることはない。これ以上付き合い続けるのは、お互いのためにもよくないことだと感じながらも、自分から進んで別れを告げることだけは出来なかった。でもそれもいよいよ終わりだ。断罪される罪人のような気分になりながら、安物のパンをインスタントコーヒーで無理やり流し込む。 いつか、彼女の心が自分に向いてくれると信じ、アプローチを続けてきたけれど、それも結局のところすべて愚かな幻想だったのだ。溢れそうなため息を飲み込み、支度を始める。頭がぼうっとする気がしたが、無理やり笑顔を作り、いつものように、鏡の中の自分に笑いかける。「大丈夫大丈夫、元気出していこうぜ!」 しかし、次なる悪夢はすぐにやって来た。 会社で取引先への訪問の準備をしていると、新人社員の田中が俺のデスクまでやってきた。 「庄司さん、これから訪問ですか?もしよければ、一緒に行かせていただけませんか?少しでも顔を覚えていただきたいんです。」 春臣は一瞬、迷った。今回の取引先の社長は、セクハラまがいの発言が多いのだ。世間話の中でも、女性差別的な発言を連発するため、これまで女性社員を連れて行ったことはなかったのだ。しかし、田中は仕事の飲み込みが早く、頭の回転も速い。連れていくには申し分のない社員だ。きっと変なことを言われても、うまくかわせるだろう。それに、いつも社長が応対するわけではない。不在のこともあるのだから。 「お、わかった。熱心だな。じゃあ準備して」 そうして、一緒に訪問に出かけ、例の社長が出迎えてくれたときにはぎくりとしたが、特に何事も起こらず、商談がまとまり、最後に挨拶をしようとしたその時。 「なあ、庄司さん。お前んとこの会社は、顔で新入社員を選ばないんだな。もし顔で選ぶなら、もっと美人な子を入れるだろうしなあ。まあ、胸は結構あるみたいだけど。」 社長は、にやりといやらしい目つきで、田中を見ている。さっと横目で田中を見ると、その顔は真っ青だった。がくがくと膝が震えている。まずい。 「なんてこというんですか、社長。うちのかわいい社員をいじめるのはやめてくださいよ」 半笑いで遮ろうとしたが、社長はなおも続けた。 「だって本当のことじゃないか。ずんぐりむっくりって、彼女のことをいうんだろ?ははは。もう少しやせたらどうかね、まあ造作は変えられないけどね。かわいそうに。」 隣の田中が涙を必死にこらえているのがわかる。その間も、社長は酷い言葉をあびせるのをやめない。それどころか、田中の反応を楽しんでいるようだ。じわじわと、頭に血が上っていく。ぷちん、と何かがはじける音がした。 「…ふざけんじゃねえぞオラ!」 バン、と机をひっくり返す。おいてあった書類や茶わんが宙を舞い、バサバサ、パリンと音を立てる。目を丸くして静止している社長の胸倉を乱暴につかみ上げると、彼はひいっと小さな声を立てた。 「さっきから黙って聞いてりゃ、勝手なことばかり言いやがって。うちの社員をよくも侮辱してくれたな。ただじゃおかないからな。覚えとけよ、許さねえ」 青い顔でおびえた様子の社長を壁にたたきつけ、わかってんだろうな?あ?と至近距離で畳み掛ける。社長は開いた口からよだれをだらだらと零しながら、声もなくひたすらにうなずいている。手を離すと、彼は腰が抜けたのか、その場に崩れ落ちた。そのままドアを蹴っ飛ばし、部屋から出た。慌てて田中が後ろから追いかけてくる。 「…わりぃ、巻き込んじまったな。お前を連れてくるべきじゃなかった。ごめんな、本当に」 「いいえ…。すみません。うまくかわせなくて、どうしていいかわからなくて…」 そう言いながら、田中は肩を震わせて泣いている。ポンポン、と軽く頭をなでてやる。 「気にすんなよ、落ち着いたら会社に帰ろうな」 そう言いながら、俺は心の中で叫んでいた。やってしまった、昔の癖が出てしまった。しかも、あれは長年にわたり取引を続けている大事な会社だ。契約を解除されたら間違いなく俺の首が飛ぶ。畜生! 田中が泣き止んでから会社につくと、案の定フロアは大騒ぎになっていた。上司は真っ青な顔で、「何てことしてくれたんだよ、お前は!」と殴り掛かる勢いで攻め立ててくる。弁解する間もなく、社内放送がフロアに響き渡った。「庄司春臣くん、田中夕夏さん、社長室に至急来るように。」 横では田中が青ざめている。その瞳はまだ充血していて、デスクのどこかで「田中さんがなんかやらかしたんじゃない?」「庄司さん可哀想」という声が聞こえた。俺はざわめく周囲をきっと睨みつけた。一瞬、沈黙が訪れ、そのすきに俺は田中の震える手を引き、社長室へと駆け出した。
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