4.不機嫌な彼

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4.不機嫌な彼

クビ宣告の当日は、案の定目の回るような忙しさで、落ち込む暇もなく、急ピッチで仕事の引継ぎやら、担当していた仕事の後任者の選定やら、お世話になった会社への挨拶回りを必死でやったが、定時には帰れそうもなかった。残業もやむなしだ…そう思った時、少し心が緩んでしまったのは、凛奈に今日会わなくて済む口実ができたからだ。 彼女を心配させたくなかったので、会社をクビになったことは隠し、「ごめん、今夜は急に接待が入った。無理言って悪いんだけど、今週の金曜の夜でもいいかな?」とラインで伝えると、彼女からの返信はすぐに来た。「わかった。」…たった一言。それでも、凛奈がすぐにメッセージを読んでくれたことがうれしい。それに、きょう別れ話をしなくて済むことに大きな安堵感に包まれる。仕事を失ったその日に、彼女も失うなんて酷すぎる。彼女とちゃんと別れ話をするためにも、約束の金曜までには退職のめどをつけなければ。それに、できれば転職先もはやく決めてしまわないと。俺は、沈みそうな気持ちをなんとか立て直し、目の前のタスクに全力を尽くした。 しかし、抱えていた仕事の量は想像以上に多かった。転職活動をする暇はなく、毎日夜遅くまで仕事をした。仕事仲間はみんな残念がってくれ、それぞれ忙しいにも関わらず、俺の仕事を分担してくれたり、さりげなく転職サイトの情報を教えてくれたりした。クビ宣告の日には、俺のことそっちのけで副社長に熱い視線を送っていた田中も、「みなさんの署名を集めて、社長の意思を覆しましょうよ」と真剣な顔で訴えてきた。そんなことをしたらお前までクビになると諭して、なんとか思いとどまらせてもなお、彼女の瞳は揺れ続け、今にも泣きそうな顔だった。彼女なりに責任を取ろうとしているのか、誰より俺の仕事を手伝ってくれた。 田中をはじめ、職場の仲間の助けもあり、なんとか金曜日には退職のめどが立った。最後の挨拶をするとき、涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、俺は言った。 「みんな、本当にありがとうございました。」 周りが拍手で包まれる中、突然女子社員がざわめきだす。何事かと思えば、…あの人が来たのだった。胸には、色とりどりの花束を抱えている。彼は、まっすぐに俺の方に向かってくると、にこりと笑った。完璧な笑顔。なのになぜか、俺はぞわりと鳥肌が立つのを感じた。 「磯部副社長…なんで」 周りの社員がやめることはこれまでも何回かあった。でも、わざわざ会社の役員が花束を持ってくるなんてことは一度もなかった。なのに、なぜこの人がここに。 「すみません、驚かせてしまいましたか?」 彼は小声でそうささやき、俺に笑いかける。俺はそのあまりの目力に、思わず目をそらした。 「庄司さんが、6年間もの間、わが社のさらなる発展のために尽力してくださったこと、心から感謝いたします。副社長として、みなさんの気持ちを代表し、私から花束を贈呈させていただきます。ありがとうございました。」 フロア中に響くような大きな声でそう言うと、彼は私に花束を手渡した。 心なしか、さっき俺が挨拶したときよりも、拍手の音が大きい気がする。見渡すと、女子社員の人数が明らかに先ほどより多くなっている。会社の幹部が一回の平社員のために、わざわざ各部署を訪ねてくるなんて前代未聞だ。おそらく、彼の姿を拝める機会を逃すまいと、他部署から押し掛けたのだろう。いいところをすべてこの男に奪われた気分だ。俺は、さっきまで胸にあふれていたはずの感謝や淋しさが、色あせてしまったような気がした。 「…ありがとうございます。お忙しい中わざわざすみません。」 ざらついた気持ちのまま無理やり笑顔をつくり、彼と握手を交わす。気のせいだろうか、彼の掌は少し震えているようだ、それに、手汗の量がすごい。汗がくっついてなかなか手が離れない。いや、どうやら手が離れないのは手汗のせいだけでなないようだ。彼はものすごい力で、俺の手を握っている。あまりの力強さに驚き、手元を見ると、俺の爪は色を失っていた。それに、彼は握手の手をゆっくりスライドさせ、手を絡ませようとしているではないか。いやいや、おかしい。なんの冗談だ?拍手ももうやんでいる。 俺ははっと我に返り、自分の手を素早くひっこめた。彼は一瞬、不機嫌な顔になったが、つぎの瞬間には笑いながら「すみません、名残惜しくてつい。僕、淋しくて。」と言った。周囲は彼の発言を冗談だととらえたのか、好意的な笑い声があがった。ハハ、と口だけで笑う俺の脳内では、彼の不機嫌な顔がグルグル回っていた。この人は、きっと俺のことが嫌いなんだろう。だとしたらなぜ、わざわざ俺に近づいてくるのか。この間の名刺といい、この花束といい、不可解だ。もしかして、妹と付き合っていることを好ましく思っていないから、復讐しようとでも企んでいるのだろうか。背筋がぞくりとする。 …ただ、今日限りでこの人と会うことはおそらくないだろう。そう思い安心した矢先、田中が声を上げた。 「磯部さん。今日庄司さんの送迎会をやろうと思っているんですが、もしよろしければ参加していただけませんか?」 なんだって?そんな話は聞いていない。秘密で計画してくれていたことへの嬉しさもあるが、今日は凛奈との約束がある。それに仕事を辞めた後に、磯部さんに会うのは嫌だった。彼の先ほどの不機嫌な顔を思い出し、俺はまたぞくりとする。でもまさか、こんな突然の誘いに彼が乗るとは思えない。忙しいだろうし。 「いいですね。皆さんがよいなら是非。」 えっ!嘘だろう?周りから、磯部さんが行くなら私も行きたいという声が聞こえ始める。ああ…嫌だけど、言うなら今しかない。 「磯部さん、申し訳ありません。田中もごめん。今日はどうしても外せない先約がありまして…せっかくの機会ですが、ご辞退させていただきたいです。送別会はまたの機会にお願い致します。」 もちろん、またの機会なんてないだろう。仕事を辞めた後で同僚に会うのは気まずいし、相手だってそうだろう。こういうイベントごとは、時期をずらしてしまうとやりづらいものだ。 「そんな…」 田中の目は、悲しげに揺れている。 「ごめんな、今日でないとどうしてもだめなんだ。もしかしてもう予約してくれてた?」 「いえ、まだですけど…でも…私…庄司さんに…」 「…もしかして、恋人にでも会うんですか?」 氷のように冷たい口調で発せられた言葉が、田中の言葉を遮る。 「えっ」 俺が絶句したのは、その冷たさのせいだけではない。その言葉を発した人間の顔のせいだ。うつむいた副社長の瞳は前髪で隠されていたが、さっきまで柔和な表情を醸していた眉が逆八の字になり、強くかみしめられた唇からは、怒りを通り越して憤怒ともいえる感情が伝わってくる。俺は息をするのも忘れそうだった。 「恋人?そうなんですか…?」 田中の声は震えている。 「まさか、そんなわけないだろう。冗談きついですよ、磯部副社長。今日は、実家に帰る予定なんです。今後の準備もしたいですし。」 なるべく明るい声で言うと、田中は途端にほっとした表情を浮かべた。副社長は、なおもうつむいたまま。 「そりゃそうだよな。送別会のことはまた連絡するからさ。家族とのびのび過ごして来いよ」 よどんだ空気を払うように、ムードメーカーの同僚が俺に笑いかける。 「ありがとう。ちょっと羽を伸ばしてくるよ。それじゃあ、俺はここで失礼しますね。みんなありがとう。磯部副社長もありがとうございました。」 俺はまとめてあった荷物を両手に抱え、花束を小脇に抱えると、いそいそとフロアを後にした。周りの人間が俺のために道をあけ、道をつくってくれる。帰りのエレベーターを待つ間、最後にもう一度フロアを振り返る。副社長とバチリと目が合った。彼はもううつむいてはいなかったが、ものすごく不機嫌な顔で、俺の目をじっと睨んでいる。そして、口の動きだけで最後のメッセージを伝えてきた。 「ウ」「ソ」「ツ」「キ」 呆気に取られていると、いつの間にか帰りのエレベーターが到着していた。慌てて乗り込み、凛奈との待ち合わせ場所に急ぎながら、俺は彼のメッセージの意味を考えた。実家に行くと嘘をついて、彼女に会いに行くことに対してだろうか?凛奈が彼に、俺との今日の約束を伝えたのだろうか。それにしては、あまりにも怒りの度合いが高すぎる。 「まさか…」 彼は知っているのだろうか? 本当は春臣に実家なんてものはない。俺の高校卒業と同時に、父母は離婚し、それぞれの浮気相手と新しい家庭を築いたのだ。だからさっきの「実家に帰る」発言は咄嗟に思いついたでたらめだ。でも、親との関係について、職場の人間には一切明かしていない。凛奈にも言っていないのだ。 「まさかあの人が、それを知っているわけないよな。」 そう自分に言い聞かせながら、俺は全身の温度が急激に下がっていくのを感じていた。
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