雨の魔法

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 私は読みかけの本をパタンと閉じました。 ふう…と吐息をつきながら、気持ちはさっきまでの物語の世界をまだユラユラと漂っていました。 窓の外は静かに雨が降り続いて、木々の緑が鮮やかです。 今は梅雨時真っ只中ですから。 細かい小糠雨(こぬかあめ)で、まさに卯の花腐し(うのはなくたし)。 物語の世界に埋没して、現(うつつ)の世界がぼんやりと霞んで遠くに行ってしまいます。 今日は来店のお客様も少なく、私はのんびりと本の世界に浸っていました。 この物語は主人公の少年が冒険の旅に出るお話です。仲間と共に正義の旅に出る、友情と冒険のストーリーです。 私はハラハラドキドキしながら手に汗握り、ときには涙ぐみながら読んでいる途中です。 まだまだこれからも冒険の旅が続くようです。彼らにはどんな出来事が待っているのでしょうか? お客様が来ないから読めるんですよね。店に入ったら、泣いている私…なんてお客様に見られたらバツが悪いですもんね。 私はカフェをやっています。お客様の来ないこんなヒマな日は、こっそり本を読んでいるのです。 物語の余韻を楽しみながら、ちょっとひと休みと自分用の紅茶をいれ始めました。 今日のエキゾチックな物語の世界に合う紅茶、アールグレイにしましょうか。 ベルガモットという果物で香りを付けた着香茶。グレイ伯爵が作らせたという、人気の紅茶です。 蒸らしている時間に、しばし店のドアを開けて外の細かい雨をうっとりと眺めていました。 すると…突然バサバサッと翼のような音がして、何かが店の中に飛び込んできました。 「えっ、何? 何?」びっくりしている私ですが、何も見えません。ただバサッバサッと羽ばたく音だけが、店の中を飛び回っているのです。 鳥でしょうか? やがて、テーブルの上にカチャカチャという爪のような音をさせて、翼の主は止まりました。 その姿は何も見えないのに、爪の音はテーブルの上をあちこち動き回っています。 紫陽花の花や、シュガーポットや、紙ナフキンが揺れます。 私はびっくりしたまま、音のする方を見ていました。 「こんにちは。ここはどこなのかなぁ? ぼくの友達は、どこに行っちゃたのかなぁ? はぐれちゃったみたい」とても可愛い声がしました。 「ここは私のカフェよ。コーヒーと紅茶とスイーツのお店よ。あなたはだあれ? なぜ、姿が見えないの? 」 「えっ? ぼくが見えないの? ここの人には、ぼくは見えないのかなぁ。ぼくにはあなたはしっかり見えるよ。ぼくの友達と同じ人間の女の人だね。友達はまだ子供だから、あなたより小さいけどね」声の主は快活に話だしました。 「この雨のせいかなぁ。さっきまでいたところも、雨が降っていたよ。シトシトと銀色の雨。ときどきね、水晶やダイヤモンドが混じるんだよ。きれいだけど、大粒だと当たると痛いこともあるよ。翼の羽根が折れちゃうこともあるんだ。でも特別にきれいなのは、拾ってとっておいたりするけどね」 この姿の見えない声の主は、どこか遠い国から来たみたいです。 「のどは渇いていないかしら? 紅茶はいかが? 」 遠い国からのお客様です。おもてなししましょう。 どうやら「鳥」みたいですから、ティーカップは持てないかもしれません。だったらアイスティーが良いかな。小振りのグラスにストローなら飲めるでしょう。 「ミルクとお砂糖を入れて、甘いアイスミルクティーにしたわ。どうぞ、召し上がれ」 「わあい。美味しそうだね」嬉しそうな声がして、チューチューとストローから飲む音がして、みるみるアイスティーは減ってゆきました。 「クッキーもどうかしら? お口に合うと良いのだけれど」 サクサクサク。クッキーも減ってゆきます。 見えない声の主と私はおしゃべりをしているうちに、やがては彼の自分の旅の話をしてくれました。 彼は人間の友達と旅の途中なのでした。お互いに独りぼっちでいたところに出会い、意気投合して一緒に旅をすることになったのでした。 「ぼくたち二人でいれば、怖いものなしさ。悪人だってやっつけちゃうよ。 盗賊団に襲われたこともあるけど、友達は剣の達人で強いんだ。ぼくだって、彼を背中に乗せて戦った。バッタバッタと、二人でなぎ倒した。ぼくらは正義の味方なんだ」 「まあ、強いのねー。あら? あなたに背中に乗るのなら、お友達は小さい人? 」 「ううん。ぼくは変身して、大きくもなれるんだ。まだ子供だから、長い時間はダメだけどね。魔法も少し使えるよ」 それからね、それからねと、見えない声の主は冒険の旅の話を、次から次からへと語ってくれました。 悪い魔法使いにだまされそうになった話、雪山で迷って死にそうになった話、砂漠で滅びた王国に迷い込んだ話…などなど。 なんだか、さっきまで読んでいた物語みたい。この二人も仲良しで親友同士なのね。 「でも、いつでも二人で力を合わせて切り抜けたよ。 実はね、友達はある王国の王子なんだ。悪い大臣に両親の王様とお妃様を殺されて、国を乗っ取られ、彼も殺されそうになったけれども間一髪で逃げ延びたんだ。 大臣は彼を亡き者にしようと追ってをさしのべたから、刺客が大勢追って来たんだ。 この刺客も二人で力を合わせてやっつけたよ」 見えない声の主は、友達との冒険の話を快活に語ってくれました。 辛いこと、大変なこと、悲しいこと、いろいろあったでしょうが、お互いの存在があればこそ乗り越えられたのでしょう。 見えない声の主ですが、その姿がキラキラ輝いているように感じられました。 「ああ、そろそろ帰らなきゃ。きっと友達が心配している」 「どうやって帰るかわかるの? 」私は心配して聞きました。 「うん。ぼくと友達は、魂の強い絆で繋がっているんだ。ぼくが友達のところに帰りたいと強く願えば、きっと友達に会える。この雨が鍵なんだ。ぼく、外に出るよ。雨の中で友達に会いたいと強く願うよ」 カフェのドアが音もなく開き、羽ばたく音がそちらに向かいました。 「アイスティーとクッキーごちそうさま。おしゃべり楽しかったよ」 雨はますます細かく降り、景色は煙っています。 外は真っ白な世界でした。 「またいらっしゃいね。今度はお友達と一緒にね」 「うん。ありがとう。またね。ぼくはララエルっていうんだよ」 細かい雨が激しくなりました。雨はキラキラ輝き、水晶かダイヤモンドのようです。 「マリアッドのところへ」 眩しい閃光が光りました。その光の中にいた影は、長い首と牙と力強い翼を持った、小さいけれど立派な銀色のドラゴンでした。 一瞬丸いつぶらな黒い瞳と目が合いました。 小さなドラゴンは、ニコッと笑うと光と共に消えてゆきました。 そして私は、さっきまで読んでいた本の主人公の少年の名前が「マリアッド」だったと思い出していました。 その「マリアッド」の冒険の旅を共にする、親友のドラゴンの名前は「ララエル」だったということも。 本はさっき置いたテーブルの上で、続きを読まれるのを静かに待っていました。
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