1

1/1
前へ
/1ページ
次へ

1

 私には、ずっと前から不思議に思っていることがあった。  この大きな扉の向こうには、一体、何があるのだろうと。  私は目の前にあるその扉に、そっと触れてみる。大好きなチョコレートそっくりな色をした、木の扉。つるつるとした手触りで、磨いた石のような光沢を放っている。私にわかるのは、そこまでで、後は重厚な造りであることしか感じ取れない。  ここが玄関と呼ばれる場所であることは、知っていた。教えられていたからだ。だが、この扉の先のことは、一切教えられることはなかった。  私は扉を眺める。扉は両開きであるため、左右にノブが二つ並んでいた。右側のノブの上には、小さな穴が開いている。鍵穴だ。現在はおそらく、その鍵は施錠されているはずだ。  私は再度、扉のノブを見つめる。そして、小さな震えを感じた。  記憶が蘇る。  私は以前、好奇心に負け、一度だけ扉を開けようとしたことがあった。鍵が掛かっているにも関わらず、無理に押し開けようとしたのだ。  だが、その瞬間を『お兄ちゃん』に目撃されてしまい、こっぴどく『叱られて』しまった。とても辛い出来事だ。それ以降、私はこの扉のノブを見るだけで、その時の記憶が蘇るようになり、開けることはおろか、ノブに触れることすらできなくなってしまっていた。  私はノブから目を逸らし、背後を振り返る。  目の前には、赤と茶を混ぜ合わせたような絨毯が広がっていた。左右には、大きな階段。上からは、シャンデリアが下がっている。  見慣れたこの風景は、絵本に出てくる(エントランスホールというらしい)お城の中のようだ。  絵本や図鑑で調べるまで、この風景が、当たり前のものではないということを、私は知らなかった。人は皆、誰もがこんな建物に住んでいるとばかり思っていた。  だけど、本を通じ、このような建物に住んでいる人間の方が稀だということを、私は知った。大抵の人は、もっと狭い独立した建物や、大きいが、内部で区分された建物に住んでいるものらしい。  私は扉を離れ、絨毯の中を歩き始める。足の裏を通じて、羽毛のような感触が伝わってきた。  階段の横にある扉を開け、私は廊下へと出る。廊下は左右に伸びていた。  私はそのどちらにも行かず、目の前にある窓へと近付く。  窓には太い鉄格子が付いていた。窓もしっかりと閉じられ、開くことはできない(本で知ったが、嵌め殺しというようだ)ため、ここから外へ出ることは不可能だった。  私は鉄格子に手をかけ、窓から外を眺める。そこにあるのは中庭だ。明るい光が空から差し、中庭に生えている色とりどりの花を祝福するように、優しく包み込んでいた。  中庭にある花は実に多彩だ。ストケシアにアスチルベ、ゼラニウムにクレマチス。他にもたくさん。  私にとって、中庭に生えている花を眺めることが、数少ない楽しみの一つだ。これまで、一度も中庭に出たことも、直接触ったこともないが、見ているだけで、心が瑞々しく癒されることがわかった。この先、触れることができたらいいなと思う。  私は窓から離れ、左に廊下を進む。いくつか扉を通り過ぎ、突き当りの角を右へ曲がる。そこから先は、さらに廊下と扉が続いていた。これは、反対方向の廊下へ進んだ場合、鏡のように逆になる。  つまりこの建物は、上から見ると、凹の形をしているのだ。  私は、その廊下を歩いた。床は木でできており、軽い足音が静謐な廊下へと響き渡る。  ある程度まで進んだ私は、立ち止まった。左手にある扉を見つめる。  玄関の扉とはまた違う雰囲気を纏った、茶色い大きな扉。  私はその扉のノブに手をかけ、開けた。中からは、木と革を混ぜたような、どこか厳かな香りが漂ってくる。慣れ親しんだ匂いだ。  私はその部屋に入る。部屋の内部には、数多くの本棚が、立ち塞がるようにして立ち並んでいた。  図書室と呼ばれるこの部屋は、私の世界の半分だった。私は、一日の大半をここで過ごしていた。 私は図書室の中を進む。中央付近に、食堂のテーブルのような、長くて大きい机が置かれてあった。そして、その前に、一脚の玉座のような派手な椅子。  私はその椅子へ座った。  机の上には、こちらを囲むように、いくつもの本が積み重なっていた。その中から、読みかけの本を一冊取り出す。  本のタイトルは、ドストエフスキーの『罪と罰』。最近読み始めた小説だ。  私はしおりを開き、中断していた場所から読書を再開する。図書室は静寂に包まれ、本を捲る音だけが聞こえた。  しばらく時間が経った。突然、静けさを断ち切るように、扉をノックする音が図書室へ響き渡る。  私ははっと本から顔を上げた。そして、戸口の方へ顔を向ける。  再びノック。私は返事をしようか逡巡する。だが、ノックの主は、私の返答を待たなかった。  扉がゆっくりと開かれる。  「やっぱりここにいたか」  お兄ちゃんが姿を見せた。  私は本を閉じ、椅子から立ち上がる。  お兄ちゃんは私を見つめ、優しげに微笑んだ。  「お昼ご飯、できたよ」  お兄ちゃんは、澄んだ声でそう言う。私はその時初めて、時刻がお昼近くになっていることに気が付いた。  私には、この屋敷に住み始めるより前の記憶がほとんどなかった。本に書いてあったが、それは記憶喪失というらしい。  薄っすらとだけ、記憶らしきものはある。どこか、ここではない場所で、女の人と、男の人、それから小さな男の子と暮らしていたような気がする。  パズルのピースのような断片的なものだが、その記憶が微かに頭をよぎる度に、ほんの少しだけ、悲しい気持ちが湧き起こった。おそらくだが、私にとって、それは好ましい記憶ではないのだろうと思う。その点では、ほとんど思い出せないことは、幸運と言えるかもしれなかった。  あるいは、その記憶自体、幻の可能性がある。妄想のように、あまりにも不確かな記憶であるため、もしかすると、何冊も読んでいる本の空想の世界と混同しているのかもしれなかった。  私は、スープをスプーンで口に運びながら、正面に座っているお兄ちゃんの顔を窺った。長テーブルの端と端なので、少し距離があるが、お兄ちゃんの顔の様子は知ることができた。  お兄ちゃんは、普段と変わらず、落ち着いた仕草で食事をしている。私と目が合うと、お兄ちゃんは、ニッコリと笑った。  私は視線を逸らし、食事に目を落とす。  美術品のように豪華な食器達の上に、色とりどりの料理が載せられていた。これらは、全てお兄ちゃんが作ったものだ。  お兄ちゃんは何でもできた。料理から、洗濯、掃除、屋敷の管理はおろか、私の世話まで。この屋敷において、私の生活が成り立っているのは、全部お兄ちゃんのお陰だ。だから、私はお兄ちゃんに感謝しなければならない。  私は再びスープを一口飲み、思う。  だが、一つだけ、解せない点があった。それは、私を屋敷の外へ一歩も出してくれないことだ。  以前の件のように、私が屋敷の外へ出たいことを示唆すると、お兄ちゃんはひどく怒る。時には、玄関の扉に近付くことさえ許さないこともあった。  それだけではない。お兄ちゃんは私にそうやって外出を禁じているのに、自分は外に出ているのだ。私はそれに対し、不満を抱えていた。  やり方も妙な部分があった。お兄ちゃんは外へ出る時になると、必ず私にあるものを飲ませるのだ。ラムネに似た、小さくて白いもの。それを飲むと、すぐに眠たくなって、ベッドへ入らざるを得なくなる。そして、起きたら、すでにお兄ちゃんは外から帰ってきているのだ。私の眠るベッドの横で、私が起きるのを見守りながら。いつもそんな感じだった。  そのため、お兄ちゃんがいない時、私は一人で行動したことがなかった。言い換えると、私が行動する時は、必ずお兄ちゃんが屋敷のどこかにいるということだ。  お兄ちゃんがそんなだから、私はほとんど『外』のことを知らなかった。お兄ちゃんにいくら聞いても、教えてくれないし。  いつか読んだ本に書いてあったと思う。人は物事を隠せば隠すほど、それを知りたがるものらしい。今の私がまさにそうだった。私は、『外』への好奇心が、日を追うごとに、風船のように膨らんでいくことを抑えられないでいた。あれほど『叱られた』というのに。  「ごちそうさま」  食事を終えた私は、席を立った。お兄ちゃんも同時に席を立つ。  「おやつの時間になったら、またおいで。チョコレートケーキを用意しておくから」  私は頷くと、食事の後片付けに入ったお兄ちゃんをその場に残し、食堂を出た。それから洗面所へ行き、歯を磨いた後、図書室へ戻る。  椅子へ座り、食事前に読んでいた『罪と罰』を手に取り、しおりを開く。  本の場面は、老婆と老婆の義妹を殺した主人公、ラスコーリニコフが、その罪の追求を判事から受けるところだった。  私は再び、本を読みふける。  一時間程度経ったと思う。私はふと図書室の窓へと目を向けた。窓の外を何かが通ったような気がしたからだ。  私は、本を置き、窓へ近付く。窓には、廊下のものと同様、堅牢に鉄格子が取り付けられてあった。  その隙間から、私は外を覗く。  目に映ったのは、大きな塀とその手前にある小さな庭だった。当然、何もいない。  中庭に面している窓とは違い、この図書室からは、塀と庭しか見えない。しかも、その庭は非常に狭く、通路と言ってもよかった。そのような形で、塀と庭は屋敷を囲んでいるのだ。  その庭を、ついさっき何かが横切ったように感じた。だが、それは気のせいだったようだ。  私は窓から離れる。中庭が見える窓以外は、全てこのように殺風景であるため、私はあまり眺めていたくなかった。ちなみに、玄関が見える位置には、窓はないので、窓から玄関の先を確認するのは不可能だった。  机へ戻り、読書を再開する。  しかし、先ほどとは打って変わって、私は読書へ集中できなくなっていた。中途半端に席を立ったせいだろうか。  身に入らないまま、私は本を捲る。次第に頭には、とりとめのない思考が、湯船の渦のように、ぐるぐると回り始めた。  私は思う。私にとって『外』と言えるのは、つい今しがた目にしたような、塀と小さな庭だけのものに過ぎなかった。あとは、中庭か。  だが、本当の『外』はそれらではないのだ。私の知りたい本当の『外』は、それらを越えた向こうにある。塀の外側。玄関を抜けた先。  私は思いをはせる。そこには一体、何があるのだろう。  私の脳裏に、絵本や小説の中で描かれている『世界』の姿が想い起こされた。  『世界』には、街と呼ばれる場所があるらしい。そこには、沢山の人がいて、沢山の建物がある。そこで人々は交流を行い、共に生活をしているらしい。  同じ建物で暮らす人々の最小のコミュニティを、『家族』というようだ。ちょうど私とお兄ちゃんのような関係らしい。家族が共に生活する目的は、互いに協力することで、生活基盤を維持するためだと聞いた。つまりは、動物の群れと同じであるようだ。  だが、それ以外にも、重要な目的があるらしい。いまいち私にはピンとこないが、子孫を残すため、と愛を育むため、とのことだ。  子孫を残す、とはつまり子供を作ることなのだろう。どうやって子供が生まれるかは何となくわかるが、愛を育む、とはどういうことなのか。私とお兄ちゃんとの関係にも、それは存在しているものなのか。よくわからない。  私は本を閉じ、図書室の中を見渡した。  この部屋は、屋敷の中で一番広い。だからこそ、沢山の本棚と本が並んでいる。  しかし、『世界』には、この図書室とは比べ物にならないほど、広い図書室があるらしい。そればかりか、内部全てが図書室になったかのような、大きな建物『図書館』と呼ばれる場所もあるようだ。  大好きな本が、建物の中全てを覆っている。私はその光景を想像するだけで、体が疼くのを感じた。それは、お菓子で出来た家よりも魅力的だと思う。  私は、一度でいいから、そこへ行ってみたいと願った。  夕方近くになり、私は再度食堂に行った。おやつの時間が訪れたからだ。  私は昼食時と同様、自分の席へ座る。すでに、テーブルの上には、チョコレートケーキと白いカップが用意されていた。  私が椅子へ座ると同時に、脇に立っていたお兄ちゃんが、お茶をカップへ注いでくれる。すみれのような澄んだ香り。ハーブティーだ。  「どうぞ。お食べ」  お兄ちゃんの穏やかな声がかかる。私はフォークでチョコレートケーキを切り取り、口へ運んだ。  ほのかな苦味と、甘さが口の中に広がる。私の中に、とろけるような喜びが生まれた。やっぱりチョコレートはおいしい。  お兄ちゃんは、そばの椅子へ座り、ケーキを食べる私を嬉しそうに眺めている。お兄ちゃんのテーブルには、何も乗ってない。  通常の食事とは違い、いつもお兄ちゃんはおやつを食べなかった。せっかくおいしく作できているのに、もったいないなと思う。甘いものが嫌いなのだろうか。  チョコレートケーキを食べ終え、ハーブティーで一息ついた時だった。お兄ちゃんは、私へこう言った。  「今日の夜、僕は外出するから」  ドクンと、私の胸の鼓動が高鳴る。それと同時に、不安も生まれた。  また、あの白いものを飲まされ、眠らされてしまうのだ。  表情から、兄は私の心中を察したようだ。落ち着かせるような、甘いささやき声を発した。  「大丈夫。すぐに戻ってくるから。そして、起きるまで、ずっと側にいてあげる」  お兄ちゃんの言葉には、いつだって、私を説得させる不思議な力があった。私は気が付くと、頷いていた。  夜になり、夕食が始まる。今日は、私の好きなハンバーグ。私は残さず、全てを平らげた。  一階の南側奥にある浴室で、私はシャワーを浴びる。その後、お兄ちゃんは見計らったように、浴室へ例の白いものと、水の入ったコップをお盆に載せてやってきた。  「さあ、お飲み」  私は言われるがまま、白いラムネのようなものを飲む。その際、お兄ちゃんは、私が飲み終わるまで、私の手元と口元を凝視していた。  ラムネのようなものを飲み終わった私を確認したお兄ちゃんは、満足そうに頷く。  「よく飲んだね、偉いぞ」  お兄ちゃんは、私の頭を撫でる。私は俯いて、何も言わなかった。  「それじゃあ寝室へ行こうか」  私とお兄ちゃんは、二階の寝室へ上がる。その頃には、すでに、眠気が襲ってきていて、足元がおぼつかなくなっていた。  お兄ちゃんは、いつものように、私を抱きかかえてくれる。私の中に、少しだけ、懐かしいような、不思議な気分が訪れた。  寝室のベッドへ、お兄ちゃんが私を寝かせてくれた時には、すでに私の眠気は限界だった。夜の帳を闇が覆うように、急速にお兄ちゃんの姿がかすんでいく。  眠りに落ちる寸前、お兄ちゃんが何か言ったような気がするが、私には聞き取ることができなかった。  はっと目が覚める。横を見ると、お兄ちゃんが椅子に座り、微笑みながら、私を見下ろしていた。眠る前の約束通り、お兄ちゃんは、私の側で起きるまで見守ってくれていたようだ。  「おはよう」  お兄ちゃんは明るく声をかける。私はぼんやりと返事を行い、体を起こした。  「朝食を作るから、顔を洗って、食堂へおいで」  お兄ちゃんはそう言うと、寝室を出て行った。私はそれを見送った後、ベッドから降りる。  私は目を擦りながら、窓へと歩み寄った。ここの窓も、一階と同じく、鉄格子で覆われていた。  私は鉄格子越しに、窓の外を眺める。窓よりも、少し高い位置まである塀の上に、朝日が昇っていた。どうやら、いつもよりも、長く眠っていたようだ。  私は少しの間だけ、窓の外を眺めていた。塀のせいで、当然、その先は見えない。ここから見ることが出来る『外』の景色は、空だけ。  私は考える。お兄ちゃんは、昨夜、『外』へ出たはずだ。この朝日がどこから昇ってきているのか私は知らないが、お兄ちゃんは知っているはずだ。もしかすると、昇る瞬間すら見たことがあるのかもしれない、  だが、そのことをお兄ちゃんに質問することは憚れた。『外』の質問をしても、お兄ちゃんは答えてくれないし、あまりしつこいと、怒られてしまうからだ。  私は窓から目を逸らし、そこを離れようとした。その時だった。一瞬、視界の隅で、何かが動いた。  動いた気がした。窓の外の、塀の上部。朝日と平行して、そこに『何か』がいたように見えた。  私は朝日の眩しさに目を細めながら、それを確認しようとした。見たはずの黒い影。だが、いくら目を凝らしても、それらしき姿はなかった。ただただ、煌々とした朝日が、こちらを見下ろしているだけである。  私はがっかりしながら、窓際を離れた。今度こそは、確かに見たと思ったのに。『外』の世界にいる『何か』を。  私は意気消沈した心を抱えたまま、廊下へと出た。  食堂へと着くと、早くも朝食の香りが漂っていた。今朝はベーコンエッグらしい。  椅子に座ってから、ものの数分もしない内に、テーブルに朝食が並ぶ。私はそれに手をつけた。  その後すぐに、向かい合わせの位置で、お兄ちゃんもベーコンエッグを食べ始める。私は、チラリと、お兄ちゃんの顔を見た。  「どうしたんだい?」  私の視線に気が付いたお兄ちゃんが、訊いてくる。今更こうして、質問してくるということは、私の表情から普段と違う気配を感じ取ったのだろう。やはりお兄ちゃんは、鋭い。  私は首を振り、俯き加減で食事を続けた。そんな私をしばらくお兄ちゃんは見つめていたが、やがて食事へ戻った。  朝食が終わり、オレンジジュースを飲んでいる時だった。お兄ちゃんが、口を開いた。  「今夜も、外へ出かけるよ」  お兄ちゃんは、今日も『外』へ出るらしい。二日続けては、非常に珍しかった。何かあるのだろうか。  私は頷いた。これで嫌だと言っても、私を連れて行ってと言っても、結局は無意味なのだ。許容するしかない。  私はお兄ちゃんの顔を見ないようにしながら、オレンジジュースを飲み干した。  朝食後、私は図書館にこもる。これはいつも通りだ。  だが、今日は何だか読書をする気にはなれなかった。  私は所在なげに、周りを囲んでいる本を眺める。手に取ってすら貰えない本達は、物言いたげに佇んでいるようだった。  僕らを読んでよ! いつもそうしているでしょ――そんな声が聞こえてきそうだ。  私は机に突っ伏した。頭の中に、取り留めのない思いが渦巻いている。この思いの根源は、やはり『外』への好奇心だった。一体、『外』には何があるのだろう。  私は机に顔を伏せたまま、じっとしていた。そうやって、頭の中の騒乱が収まるのを待った。  しばらくして、幾分か落ち着いた私は、顔だけを横に向けた。それから、視界に入った本の山の中から、一冊だけ本を取り出した。何の気なしだった。  私は、取り出した本の表紙を見てみる。タイトルはスティーブン・キングの『ミザリー』。とある小説家が、ファンの女性から監禁を受ける猟奇的な話だったと思う。あまり好きな内容でなかったので、途中までしか読んでいなかった。  私は左頬を机に付けたまま、適当に『ミザリー』を捲ってみる。活字の群れが次々と目の前を通り過ぎていく。すると、一つ、気になる部分を見つけ、私は手を止めた。  そこは、監禁された主人公が、謀反を試みるシーンだった。怪我をしている主人公は、犯人である女性から痛み止めのカプセルを処方されていた。そのカプセルは、痛み止めの他に、催眠効果も含まれているらしい。主人公は、その薬を飲んだように見せかけ、いくつか隠し、隙を見て女性へ飲ませようとするのだ。  結果は、失敗に終わるが、物語を盛り上げる一種のターニングポイントだった。  私の頭に、光が明滅した。私は顔を上げ、立ち上がる。  もしかしたら、上手くいくかもしれない。私はそう思った。私の頭に浮かび上がった考え。それを実行すれば……。ただ、もし失敗したら、『叱られる』だけではすまないだろう。  私は前に『叱られた』時の光景を思い出し、身を震わせた。もしも失敗すると、あれ以上の苦しみが訪れるのだ。それは強い恐怖があった。  私は、図書室の窓へ目を向けた。明るい太陽の光が、図書館へと入り込んでいる。『外』からやってきた光だ。  私は思う。  だけど、上手くいけば、『外』がどうなっているのかわかる。『街』にも行ける。そこで、私とお兄ちゃん以外の『人々』とも出会える。図書館を訪ねることができるし、中庭で眺めるだけだった花々とも、触れる合うことが可能なのだ。  私は窓際に歩み寄る。取り付けられている鉄格子を握り、空を見上げた。  この空の下を歩いてみたい。そう心から願った。  私は決心した。  それから私は、作戦を練った。とは言え、そんな複雑なものではなく、単純明快なものだった。  私は練ったその作戦を、何度か頭の中でシミュレートしてみる。実際問題、その時でないとわからないことだらけなので、実質ぶっつけ本番と言えるかもしれなかった。しかし、それでも色々なことを想定しておくのは、無駄ではないと思った。  やがて昼になり、私は昼食を食べるため、食堂へと下りた。とっくにお兄ちゃんは、昼食を作り終え、テーブルへと置いていた。  今日はサンドイッチだった。牛乳が添えてある。  私はテーブルへ着き、サンドイッチを頬張る。心中は一物抱えているとは言え、それでもお兄ちゃんの作る料理は美味しかった。それは嘘がつけない。  サンドイッチに舌鼓を打ちつつ、牛乳を飲む。兄ちゃんは牛乳ではなく、コーヒーと一緒にサンドイッチを食べていた。  しばらく無言の食事が続く。サンドイッチが半分くらいに減ったところで、私は、そっと気付かれないように、お兄ちゃんの様子を確認した。  お兄ちゃんはもうサンドイッチを食べ終え、優雅な動作で、コーヒーを飲んでいた。私の視線は悟られていないようだ。  お兄ちゃんは普段と変わらなかった。いくら勘が鋭いとは言え、私の中に生まれた決心を把握している様子もない。  私はお兄ちゃんから視線を逸らし、残りのサンドイッチへ手をつける。  サンドイッチを食べ終えた私は、お兄ちゃんへあるお願いをした。  お兄ちゃんは、不思議そうな顔をする。  「どうかしたのかい?」  私は首を振って、大した理由がない旨を告げる。  私がお兄ちゃんにお願いしたことは、今晩、一緒にお風呂に入って欲しい、というものだった。お兄ちゃんは、それを唐突な申し出として受け取ったようだ。  お兄ちゃんは、しばらく怪訝そうにしていたが、ただの気紛れだと思ったのだろう、納得した表情で首肯した。  「わかった。一緒に入ろうか」  お兄ちゃんの了承に、私は笑顔を向けた。お兄ちゃんは、嬉しそうに微笑む。それから言った。  「ただ、今晩は外に出るから、早めに入ろうか」  私は頷く。心の中で、よし、と呟いた。  少しだけ、作戦が前進したことを実感した。  午後も図書室で過ごす。私は机にも着かず、窓から『外』を眺めていた。『外』は明るい日差しに包まれている。  私は目の前に広がっている、そそり立つ塀を見た。『外』との境界線。高さはすでに把握しており、この屋敷の屋根よりもある。  もしも、屋敷から出られたとしても、この塀を自力で越えることは不可能だろう。私は『忍者』ではないのだから。  つまり、屋敷を出た後、そこから『外』へ行くには、塀以外の場所を選ぶしかなかった。  本でしか知り得ていないが、おそらく、『門』というものが、どこかにあるはずだ。そしてお兄ちゃんも、それを利用しているに違いない。  未知数だった。この屋敷から出る公算も不確かだが、そこから先も未知の領域なのだ。こればかりは、実際、その時に対処するしか方法はなかった。  そして重要な点が一つ。言わずもがなだが、絶対にお兄ちゃんには悟られてはいけないことだ。『叱られる』ことが問題ではない。もしも、この逃亡計画が発覚してしまったら、それ以降、お兄ちゃんは、確実に私への警戒を強めるだろう。そうなったら、もう二度と、脱出など企てる隙すらなくなってしまう。つまりは、一度の失敗で、もうチャンスは消滅するのだ。  私は狭い青空を見上げ、唾を飲み込む。失敗は許されない。慎重にやろう。  とはいえ、望みも少しはある。不穏な兆しがあれば、ある程度引き返しは可能だという点だ。仮に『外』へ出て先に進めなくても、屋敷に戻ればいいだけ。証拠を消す必要はあるが、その時間的猶予もそれなりにあるはずだ。ようするに、私が眠ったことをお兄ちゃんが確信して『外』へ出てしまいすれば、リスクはぐんと減るのだ。  私はそう考えた。  鉄格子が嵌った窓から私は離れる。それから椅子へ座り、私は天井を仰ぎ見た。  きっと上手く行く。  なぜだが、私はそう確信した。  夕食はビーフシチューだった。私は付け合せのパンと一緒にシチューを食べる。  この夕食が終わったら、約束通り、お兄ちゃんとお風呂へ入る。そして、計画を実行するのだ。そのことを考えると、緊張と恐怖で胸の鼓動が早まったことがわかった。  私は、極力、その気持ちを悟られないよう、心を抑えることに尽力した。  夕食が終わり、私はチョコレートミルクを飲む。これは私が求めたものだ。お兄ちゃんは、お風呂を優先しようとしたが、私は駄々をこねて、欲求を通した。  私はゆっくりと時間をかけて、チョコレートミルクを飲んだ。およそ半分くらい飲んだところで、向かいに座っているお兄ちゃんが、時間を気にし始めた。  「そろそろお風呂に入ろうか」  あまり遅れすぎると、今度はお風呂を飛ばして、例の白いものを飲まされるハメになる。私は頷き、席を立った。  お兄ちゃんと一緒に浴室へ行く。私はお兄ちゃんから体と髪を洗ってもらい、湯船に浸かった。その後で、お兄ちゃんも湯船に入ってくる。お兄ちゃんは、後ろから私を抱きかかえるようにして、湯船に浸かった。  二人共に温かいお湯に包まれ、しばらく時間が経過する。やがて、お兄ちゃんが口を開いた。  「もう上がろうか」  私は首を振った。もう少しお湯に浸かっていたい。出来ればもっと熱くして。その方が気持ちいいから。私はお兄ちゃんの胸元へ頭を預け、そうねだった。  お兄ちゃんは逡巡していたが、満更でもなさそうな表情を浮かべ、それを了承した。  さらに熱いお湯が湯船に足される。私はその熱さに身を委ねた。  またしばらくお湯に浸かる。徐々に、全身が熱に侵食されていくことが実感できた。頭がぼんやりとしてくる。  「熱くないかい?」  お兄ちゃんが心配そうに、私へ訊く。私は大丈夫だと頷いた。  さらに時間が経つ。私は眩暈を覚え始めていた。体が茹ったかのように、火照っている。  気持ちも悪くなってきた。風邪で高熱を発症したかのような感覚だった。  私はうめき声を上げた。これは演技ではなく、本心から出た声だ。思わず口から漏れていた。  お兄ちゃんは、私の異変に気が付いたようだ。心配そうに、私の顔を覗き込む。  「どうしたんだい?」  それから、はっとした表情に変わった。お兄ちゃんは、すぐに状況を察したらしい。お湯でのぼせた私の体を抱きかかえ、湯船の外へと出す。  「大丈夫かい?」  浴室のタイルの上へ、お兄ちゃんは私を寝かせた。私は重くなった体で、なすがままだった。本当にのぼせ上げ、ろくに動けなかったからだ。  しかし、これは計画通りであった。  お兄ちゃんは私に声をかけながら、タオルを水で濡らして、私の顔に当てる。その傍ら、時間を気にする素振りを見せた。私はそれを見逃さなかった。  お兄ちゃんの介抱が続いた。濡れタオルで、お兄ちゃんは、私の体を冷やしていく。次第に私の体温は下がり始めた。  「気分はどうだい?」  お兄ちゃんは、穏やかに訊いてきた。徐々に戻りつつある私の顔色から、こちらの体調を察したのだろう。  だが、そこに、焦りの色が含まれていることがわかった。時間が差し迫っているに違いない。  随分良くなったと、私はお兄ちゃんへ、笑顔を見せた。お兄ちゃんは、ホッとした表情になった。  「お水を持ってこよう」  そう言って、お兄ちゃんは、急いで浴室を出て行く。私は、タイルの上に寝そべったまま、まだ少しぼんやりとする目で、天井を見上げる。これからが本番だった。  お兄ちゃんは、水の入ったコップをお盆に載せて浴室へ戻ってきた。コップの他に、例の白いラムネのようなものも載っている。  「お水をお飲み」  お兄ちゃんは、コップを私に差し出した。だが、私は首を振って拒否をする。まだのぼせているため、自分では飲めない――その意思表示をした。  お兄ちゃんは、仕方がなさそうな顔をして、私の口にコップを付け、飲ませてくる。私は、大人しく、水を飲んだ。  「さあ、これもついでにお飲み」  お兄ちゃんは、例の白いものを飲ませてくる。私は何の抵抗をする素振りも見せず、素直にそれを口に含んだ。そして、お兄ちゃんは、コップを傾け、私の口の中に水を流し込んできた。  私は、お兄ちゃんに悟られないよう、そっとその小さな粒を、口の中の隅に追いやった。それから、流し込まれた水を、喉を鳴らして飲む。白い粒も一緒に飲んだと見せかけるようにしながら。  お兄ちゃんは、いつもよりも、私の口元を凝視していなかった。私が水を飲んだのを確認すると、すぐに目を逸らし、コップを盆の上へと置いた。  おそらく、自分の手で白い粒を私の口の中へ入れたことと、時間が迫っていることで、チェックを怠ったのだろう。完全な油断だ。お兄ちゃんは、私が白い粒を飲まなかったことに、気が付かなかった。  「さあ、体を拭こうか」  お兄ちゃんは、私の体を支えながら、半ば強引に立ち上がらせた。普段私を気遣う動作とは違い、相当乱暴だった。それほど焦っているのだ。  お兄ちゃんは、壁に掛けられたバスタオルへ手を伸ばしている。こちらの動きには注意していない。  私は、お兄ちゃんの様子を窺いながら、口の中の白い粒を手に吐き出し、浴槽へと捨てた。ラムネのようなつくりだから、おそらくすぐに溶けるはずだ。  「さっさと済ませよう」  お兄ちゃんは、先ほどの私の行動に気付くことなく、急いで私の体をタオルで拭き始めた。髪も同様だった。  ある程度水気が取れたところで、お兄ちゃんは、タオルを元に戻した。  「さあ、寝室へ行こう」  そう言うと、お兄ちゃんは、私の手を引き、浴室から出る。私は大人しく従った。  エントランスホールまで来たところで、私は足をもつれさせた。いつものように、眠くなった振りをしたのだ。  お兄ちゃんは、これもいつも通り、私を抱きかかえてくれた。私は身を任せる。  寝室へ入り、私はお兄ちゃんの手で、ベッドへ寝かされた。そして、毛布が優しく掛けられる。  その頃には、私はすでに目を瞑っていた。寝息も立てている。だが、もちろん、狸寝入りだ。頭はしっかりと覚醒していた。  毛布を掛け終えた後、僅かだけ、寝室に静寂が訪れた。お兄ちゃんが動く気配がしなかった。私が眠っていることをお兄ちゃんは、確認しているのかもしれない。閉じた瞼越しに、こちらを見下ろすお兄ちゃんの姿が、見えるような気がした。  やがて、私が眠ったと確信したのだろう、頭を撫でる感触がする。そして、頭上から声がかかった。穏やかな声だ。  「じゃあ行ってくるね。必ず帰ってくるから」  お兄ちゃんはそう言い残し、寝室を出て行った。  お兄ちゃんが寝室を出て行っても、私はしばらく目を開けなかった。戻ってくる懸念があったからだ。それに、お兄ちゃんが屋敷を出て行くまで待つ必要もある。  しばらく私は待った。やがて、屋敷のどこからも音がしなくなったことを確認し、私は目を開けた。  私はベッドからそっと降りる。そして、音を立てないように、慎重に寝室の扉を開いた。  静まり返った廊下へ、扉が軋む音が響き渡る。その音に、私の心臓は縮み上がった。  昼間はまるでわからなかったが、この扉はここまで軋むのかと驚きを覚える。もしもお兄ちゃんがいたら、気付かれてしまうかもしれない。そう思った。  私は廊下へと出て、静かに扉を閉める。それから、足音を殺して歩き出した。  廊下は、薄明かりのみ点いている。普段とは違い、見通しが悪かった。その中を歩いていると、まるで知らない場所へと来たみたいだった。  私は寝室のある廊下を突き当りまで行き、そこから左へ曲がる。そして、その先にある階段を下りて、エントランスホールへと辿り着いた。ここまでは、お兄ちゃんがいる気配を感じなかった。本当に、『外』へと出ているのだろうか。  私はエントランスホール側の扉を開き、食堂の中を確認する。誰もいない。その奥の厨房も確かめる。そこにも、始めから誰もいなかったかのように、静寂に包まれていた。  私は念のため、近くの部屋もチェックする。だが、そこにも人の気配を感じ取れなかった。  本当に、現在、この屋敷は私以外、誰もいないのだ。私はそれを確信した。  一気に、緊張感が高まる。今、私は自由だ。鎖から解き放たれた囚人。いつか、本で目にしたそのフレーズが頭に蘇る。  私はエントランスホールへと戻り、玄関の扉を見つめた。それから歩み寄る。  扉の目の前までくると、私は唾を飲み込み、二つあるうちの、右のノブへ手を伸ばした。だが、触れる寸前で手が止まる。頭の中に、『叱られた』時の光景が思い起こされたからだ。  条件反射のように、自然と震えが生じる。もうあんな目にはあいたくなかった。あれほどの恐怖は初めてだった。  心の中で声がする。もしもこの『脱走計画』がお兄ちゃんにばれたら、それ以上の恐怖を味わうことになる。だからやめろ。今ならまだ充分引き返せる――。  私は首を振り、その言葉を頭から追い払った。もう私は『外』への好奇心を抑えることができなかった。たとえ、失敗による甚大な恐怖が待っていようと、私は私の望みを叶える。私はそう心に決めたのだ。それに引き返すにしても、まだもう少し先を見てからでもいいはずである。  私は決心し、玄関扉の右のノブに手を触れた。金属の冷たい感触が伝わってくる。あの時と同じだ。  私はノブを回し、扉を押した。構造は他の扉と大差がないはずなので、こうすれば開くはずだ。だが、扉は左右両方とも密着したようになって、開くことはなかった。次は引いてみるが、結果は同じだった。  私はため息をつきそうになる。やはり施錠されているのだ。あの時もそうだった。お兄ちゃんが『外』へ出ている時も、ここは鍵が下ろされるのだ。  私はどうしようか迷った。ここを開けるには、鍵が必要だ。解錠するための道具。それはどこにあるのだろう。  私は思う。もしかしたら、お兄ちゃんはそれを『外』へ持って行っているのかもしれないと。ここから『外』へと出て、鍵を掛けたのなら、鍵をお兄ちゃんが所持したままのはずだ。もしもそうなら、万事休すである。鍵がないとここは開けられないし、他に『外』へと出ることが可能な場所はない。つまり、ここを解錠できないのであれば、諦める他ないのだ。  私は再度、ノブを回し、扉を開けようとする。金属同士が触れ合う鈍い音がして、扉は開かなかった。  私はノブから手を離し、目を瞑った。焦りと絶望の感情が、夕闇のように、心を覆っていく。  私は息を小さく吐き、目を開いた。  希望を捨てては駄目だ。せっかく作戦が上手く行き、お兄ちゃんがいない間に動けるようになったのだから。このチャンスを生かすべきである。  もう一つ、スペアの鍵があるかもしれない。だから、探してみよう。  私はそう決心し、再度食堂へと向かった。  結論から言うと、鍵はすぐに見付かった。食堂を探した後、軽くダイニングを探ったら、発見に至ったのだ。  鍵は、ダイニングにあるチェストの引き出しに、無造作に収納されてあった。あまりにも無用心ではないかと思った。私が眠っているから、探られはしないと高を括っていたのか。あるいは、収納したこと自体忘れていたのだろうか。いずれにしろ、お兄ちゃんの失態だ。  この屋敷は、鍵が掛かっている場所が玄関扉の一箇所しかない。つまり、この鍵こそが間違いなく、玄関を解錠できる鍵なのだ。  私は鍵を手に取り、ためつすがめつしてみる。鍵は私の中指ほどの大きさで、真鍮製らしく、薄茶色の鈍い光を放っていた。後ろの方に、四葉のクローバーのような装飾が施されてある。  私はその鍵を持ち、玄関へと戻った。そして、扉の前に立つ。  心臓が早鐘のように鳴っている気がした。足も震えている。喉もからからで、どこか浮ついたように、頭がぼおとした。  これから新天地へと足を踏み入れるのだ。緊張するのは当然である。しかし、それでも、落ち着かなければならない。  私は何度か、大きく深呼吸を行った。そして、気持ちが若干静まったところで、鍵穴に目を向ける。  私は震える手を抑えながら、クローバーの鍵を鍵穴へと差し込んだ。そして、回す。  カタンと、金具が床に落ちたような、硬質な音がエントランスへ響き渡る。解錠に成功したのだ。  私は息を飲み、ノブにゆっくりと触れた。それから、ノブを回し、そっと扉を押し開ける。  一陣の風が、顔を撫でた。それは湿った空気を纏っていた。浴室の湿気とは違い、どこか重くて不快な感覚があった。  私は思い切って、扉を全開にして開いた。たちまち、全身を『外』の空気が包む。やはり、空気は非常に湿っぽく、粘つくようだ。  私は、開いた扉の先を見てみる。そこは闇夜に覆われていた。電気を消した部屋のように、全く何も見えない。  それでも私は、前へ一歩を踏み出した。このまま屋敷に留まっているつもりはなかった。  それまで絨毯だった柔らかい地面が、急に浴室のタイルのような固い地面に変わった。ただ、浴室のタイルと違う点は、ツルツルしていないことだった。むき出しの外壁のように、ざらついた荒れた感触がある。  そしてそれが、すぐに石畳と呼ばれる地面であることがわかった。玄関から先は、石畳が伸びているのだ。  私は玄関の扉を閉じ、歩き出した。玄関からの明かりが途絶えた空間は、一切先が見えなくなった。常世の闇、という言葉が頭をかすめる。まるで、地の底へと歩いているようだった。  だが、しばらくすると、薄っすらと、周辺の景色が見えるようになった。目が慣れてきたお陰と、半月の月明かりのお陰だろう。  私は周囲を確認する。足元の石畳の他に、左右には、庭が広がっていた。そして、その外側に高い外壁がそびえている。外壁の上部は、いくら月明かりがあろうと、漆黒の空間が覆い、見通せなかった。  私は顔を正面へと戻す。正面には石畳が続き、その先に、それがあった。  目線の一番奥。ちょうど外壁と平行している部分に、私を通せんぼするかの如く、檻の一部のようなものが立ちはだかっていた。  おそらく、それこそが、『門』に違いなかった。屋敷の窓に嵌っている鉄格子とよく似た形状の、格子の『門』だ。  私はその『門』へと近付いた。高さは外壁ほどではないが、私の身長の倍以上はあり、自力でよじ登ることは不可能だった。格子の隙間は私が通れるほど幅はなく、もちろん鉄なので、こじ開けることも無理であった。  私は『門』へ手を触れた。屋敷の窓の鉄格子に触れた時と同じように、ひんやりとした感触が伝わってくる。  私は『門』の向こうに見える景色に、目を凝らした。そこは夢にまで見た『外』だ。  だが、闇夜のせいで、遠くまで確認できなかった。かろうじて、庭と同じように、草と土に覆われた地面が広がっていることは見て取れた。  私は『門』を開こうと試しに押してみる。始めはてっきり、ここにも鍵が掛かっているかと思った。『門』がほとんど動かなかったからだ。  だが、どうやら違うらしい。手応えがあった。  再度、力を込めて押す。『門』は少しばかり開いた。いける。私は、確信した。次は全身を使い、体重をかけて『門』を押し続けた。  『門』は、図書室の重い椅子を押しているかのように、徐々に開いていった。  やがて、『門』には私一人が通れるほどの隙間ができた。そこで私は『門』を押す手を止めた。  私は大きく息を吐く。胸が高鳴っていた。それは、体を動かしたせいではない。興奮によるものだ。  ようやくここまできた。私が望み続けた『外』の世界。それが、今、目の前に広がっているのだ。そして、私は、その中へと一歩を踏み出せる場所に立っている。  奇跡のような状況だ。そのためか、私はどこか非現実的な感覚を覚えていた。本の中の登場人物になったかのような、不思議な気分に包まれている。  私は高揚した気分を消し飛ばすため、大きく首を横に振った。それから深呼吸を行う。ここからが本番だ。気合を入れなければならない。  『外』に出ることに恐怖もあった。何があるのかわからない上、お兄ちゃんにも知られるかもしれないのだ。だけど、ここまできたからには、引き返すつもりはなかった。さあ、行こう。  私は心で大きく声を張り上げた。そして、『門』から『外』の世界へと足を踏み出した。  一体どれほど時間が経ったのだろう。私は動かし続けていた足を止めた。その場で、空を見上げる。  夜空には、半月状の月がこちらを見下ろしていた。その月明かりのお陰で、かろうじて夜の中を歩くことができていた。もしも今日が新月なら、前後不覚で前へ進めなかったかもしれない。  周囲は、相変わらず、土と草に覆われた地面が続いていた。それ以外は何もなく、後ろにあった屋敷も、もう姿が見えなくなっていた。  私は再度、空を見上げた。月は屋敷を出発した時よりも、随分と傾いている。おそらく、結構時間は経ったはずだ。  私はお兄ちゃんのことを考えた。お兄ちゃんは屋敷へ帰ったのだろうか。道中私と会わなかったことから、まだどこか遠くにいるのかもしれない。もしも、お兄ちゃんが屋敷に戻って、私がいないことに気がついたら、必ず私を追ってくるはずだ。だから、可能な限り、遠くに行かないと。  私はまた歩き出した。  それからさらに時間が経ったと思う。私ははっとした。  今まで月明かりのみだった周囲の景色が、明るさを増していた。先ほどよりも、くっきりと、物が見えるようになっているのだ。  夜が終わり、これから朝が訪れることがわかった。  私は立ち止まった。明るくなりかけている空を見つめる。太陽がどこから昇ってくるのか、これからわかるかもしれない。  やがて日が差した。遠くにある、巨大な出っ張り――おそらく山と呼ばれる場所――の間から、太陽が姿を見せ始めた。普段は真上で輝いているはずの太陽が、横から見えるのは、新鮮な感覚だった。  太陽は、お湯が浴槽を満たすように、少しずつ上昇を始めている。私はそれを眺めた。  美しい。はっきりと、そう思えた。太陽が姿を現す姿(日の出というらしい)を初めて見たが、これほどまでに神秘的なものかと、驚いた。  高い塀の『外』では、このような美しい光景が毎日繰り返されていたのだ。それを見逃し続けていたことに、私は悔しさを覚えた。  私はしばらくの間、その場に立ったまま、日の出を見つめていた。やがて、太陽が山間から完全に姿を現したところで、周辺の景色を確認する。  すっかり明るくなった周囲は、はっきりと見通せるようになっていた。  私はこれまで歩いてきた道を振り返る。そこは緑の草に覆われた地面が続いているだけ。歩いている時は気付かなかったが、屋敷からここまで、平坦ではないため、屋敷は視界から完全に消えてしまっているのだ。  私は前方に視線を戻す。この場所から先も、緑の大地が続いている。ただ、背後と違うのは、比較的平坦な大地になっていることだった。  私は再び歩き出す。一体、いつになれば、人がいる『街』に辿り着くことができるのだろう。私の疑問に対する答えは、見当もつかなかった。  歩き始めて少しした頃。左手に、これまでとは違うものが見え始めた。こんもりとした、背丈が私の身長の何倍もある植物――中庭にも植えられていたが、木と呼ばれるもの――それが密集して、沢山生えている場所が、左手に広がっていることを私は確認した。  本でしか知らなかったが、おそらく、それは『森』と呼ばれる地形の一種に違いなかった。木は見たことがあるが、それがあんなに沢山集まって生えているのは、見たことがない。とても不思議な作りだ。一体、どうやって、あんな沢山の木が集中して生えてくるのだろうか。  私は自然に、『森』の方へと足を進めていた。徐々に『森』に近付き、『森』が始まる寸前の位置で、私は足を止めた。それから見上げる。  圧巻だった。これほどの大きな植物が、こんなに生えている。本で知った時よりも、はるかに迫力があった。  私は中庭を思い出す。あそこにも木は生えていた。木だけではない。様々な花も生えている。ストケシアにアスチルベ、ゼラニウムにクレマチス。もしかしたら、この『森』の中にも、それら花々が沢山生えているのかもしれない。これまで『外』は、散々私を驚かせてきた。それくらいあっても、不思議ではなかった。  私は辺り一面、花で覆われた世界を想像した。身体が震える。どうしても見たい。  私は『森』の奥へと、足を踏み入れた。  『森』に入ってから、しばらくして、私は『森』に入ったことを後悔し始めた。  『森』の内部は、想像以上に複雑な構造をしていた。木々の根や、他の植物が群生し、行く手を阻むように生え盛っていた。空を覆う樹冠のせいで、明るく輝いているはずの太陽が遮られ、周囲は曇りの日よりも薄暗い。  足場も悪く、私は何度か躓きながら、歩かざるを得なかった。  いくら進んでも、私が望む花々の景色は姿を見せなかった。どこまでも、暗い廊下のような、陰鬱な雰囲気の景色が続くだけだった。  私はぼんやりと思う。太陽は今ちょうど真上にある。時刻はお昼ぐらいだろうか。お兄ちゃんは、とっくに屋敷へと戻っているに違いない。そして、私が屋敷から消え失せていることに気が付き、血相を変えて探し回っていることだろう。  お兄ちゃんは勘が鋭い。私が屋敷のどこにいようと、すぐに見つけ出す。もしかしたら、私が『外』に出ても、それは同じではないのか。  そう思った時、背後にお兄ちゃんの気配を感じた気がした。  息を飲み、とっさに振り向く。そこには何もいない。暗い『森』が続いているだけだ。  私はホッと息を吐き、前を向く。さすがに考えすぎだった。いくらお兄ちゃんでも、こんなに早く私を発見できるはずがないのだ。  ――いや、わからない。お兄ちゃんならあり得る……。  私がそこまで考えた時だった。何かの音が聞こえた。  木々が擦れるような音。衣擦れの音にも似た、ささやき。  すぐ目の前の茂みが、音を立てて揺れた。私がはっとした瞬間、そこから『それ』は現れた。  『それ』は二本の足で直立しており、体を布のようなもので覆っていた。他は大した特徴はない。  『それ』も、私と同様、ここで誰かと遭遇することを予期していなかったようだ。ぎょっとしたように立ち竦んでいる。  だが、やがて『それ』は戸惑ったような口調で、言葉を発した。人語を操るということは、知性があるということだ。  「き、君は、誰? どうしてここにいるの? それに……」  その声は、お兄ちゃんよりも、少し高めだった。どことなく、幼さがある気がする。  声をかけられ、さらに緊張と恐怖が私の中で増大した。頭が真っ白になり、その場から動けず、固まってしまう。足が石のように硬直していた。  慄いている私を見て、目の前の『それ』は逆に冷静になったようだ。落ち着いた様子で、私に歩み寄ってくる。  「とりあえず、これを」  『それ』は、自分の体を覆っていた布を取り外す。そして、それを広げて、私へ被せようとした。私の中に、じわりと嫌な気分が生まれた。一体、何をするつもりなのだろう。  私は恐怖のあまり、小さく悲鳴を上げてその場に蹲った。お兄ちゃんから叱られた時のように、顔を手で覆い、下を向く。  『それ』が息を飲む気配が伝わってきた。だが、再び優しげな声がかかる。  「安心して。これを着せるだけだから」  私の体を、何かが覆うのがわかった。肩から腰にかけて、布が被さっている。  「ねえ、君はどこから来たの?」  頭上から『それ』の質問が聞こえる。私は顔を上げた。  『それ』は心配そうにしていた。少なくとも、私の目にはそう映った。  幾分か、落ち着いた私は、思う。目の前のこの生き物は何なのだろうと。  『人』ではないのはわかる。お兄ちゃんとはまるで容姿が違うからだ。  「向こうに山小屋がある。そこで君を保護するよ」  『それ』は穏やかに言い、私に手を差し伸べた。  私はその手を取った。  『それ』に連れられ、しばらく森の中を歩くと、小さな小屋が見えてきた。  私はその中に案内される。恐怖はあったが、頭が麻痺したようになっており、何も考えられないでいた。  小屋の中は、ちょっとした倉庫のようになっており、隅には物がいくつか積み重ねて置かれてある。  そして、その手前に、『それら』はいた。全部で四体。私をここまで連れてきた『それ』と同じ容姿の生き物。おそらく、仲間だ。  『それ』は、仲間に何事か説明をしていた。内容はいまいち、私の耳には届かなかったが、「女の子」「裸」「化け物」といった単語は聞こえてきた。一体、何を話しているんだろう。  やがて、説明を聞き終えた生き物の内の一人が、私の側に寄ってきた。この中で一番体が大きく、年を取っているようにも見える。多分、リーダーなのだろう。   「なあ、じょうちゃん、どこから来た?」  そのリーダーはそう訊いてくる。屋敷のことが脳裏に浮かんだが、言うわけがない。  私は、目を伏せ、覆っている布ごと、自身の体をかき抱く。  リーダーはしばらく私にいくつか質問をしたが、そのいくつかは意味すらわからないため、全て黙っていた。  リーダーはため息をつくと、他の仲間に声をかける。  「まあ、いい。とにかくこの子を連れて山を降りよう。そろそろ日が暮れる。そうなれば、危険だ」  そして、仲間達は、机や箱の上に載せていた木で出来た筒のような物を手に取った。私を最初に発見した『それ』も同じ物を手にしている。  私は、それを見て、強い不安に襲われた。それから、お兄ちゃんのことを思い浮かべる。お兄ちゃんは、どうしているのだろう。私を助けにきてくれないのだろうか。  そして、確信した。お兄ちゃんは何か私に隠している。それはわかった。  「行こうか」  『それ』が私の手を握る。私は大人しく従った。  私は、他の者に連れられて、小屋を出た。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加