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「クロスロードの靴」 10
翌日、目が覚めると、秀介さんはアルバイトでいなかった。
朝食を食べ終えてから、僕が描きためたスケッチブックをあやねさんとりゅうさんに見てもらった。
「いけてるじゃん」、「うん。いいね」と二人からほめられた。
「今度、あたしの肖像画を描いてもらおうかな。いいでしょ」
あやねさんにウインクされた。どきっとした。じっと見つめられると照れてしまうほどきれいになっていた。僕はうつむき加減にうなずいた。
「じゃあ俺も描いてもらおうかな」
りゅうさんがあやねさんに便乗する。誰かに求められることはうれしいことだ。来てよかった。会えてよかった。これから一週間以上も一緒に過ごせるんだ。と想像をすれば、心がうきうきしてくる。一緒にいる時間が長くなると、人は打ち解けていく。
三日目、「おばあちゃんの容体が急に悪くなった」と連絡が入った。青ざめたりゅうさんが急いで家へ向かった。日中、かおりさんやあやねさんと話すことが多くなった。
四日目、秀介さんが一日中部屋にいた。表情は硬く、重苦しい雰囲気が部屋を暗くする。りゅうさんが心配になった。
五日目、おばあちゃんの容体が回復に向かい、りゅうさんが戻って来た。みんなが一安心をした。
夕食時、「地元での噂話を仕入れてきたからみんな聞け」とりゅうさんが神妙な顔で話し出した。
病院でばったり同級生と出会した。「野島」と呼び止められ、立ち話をした。去年の夏、高校の同窓会が開かれた。三人には同窓会の案内状が届いていなかった。なぜ案内状が送られていなかったのか、本当のところはわからない。同級生の説明では、同窓会に顔を出せなかった三人にはあらぬ噂が飛び交っていると言う。行方不明、病死、自殺など、この世に存在していない噂まで並べられた。
「俺たちはともかくとして、少なくとも秀介には案内状が届いてもおかしくはないだろ。あいつら」
りゅうさんが憤慨していた。
「どっちにしても、これからも関わり合うことはないし、関わり合いたいとも思わない」
秀介さんとあやねさんはあまり気にしていなかった。
六日目、秀介さんはアルバイトへ行った。僕は彼らと話すことが多くなった。会話をしているうちに、彼らの絵を描きたくなった。
二十時頃、秀介さんの実家から電話がきた。秀介さんの受け答えには動揺と不安が受け取れた。困っているような返事が受話器へ送られる。なにかお願い事をしている。どうも却下された雰囲気だ。
「事情はわりました。無理を言ってすみません。父さん、父さん、わかっているから。あとは自分でどうにかするから。うん。うん。ありがとう」
秀介さんが力なく受話器を置いた。家の事情で仕送りが半分に減らされることになったという。
「大丈夫。アルバイトを増やしてがんばるから」
秀介さんがみんなに笑顔を向けた。
この日を境に秀介さんのいらいらが目立つようになった。
振り返って考えれば、この春、僕は踏み込んではいけない領域に入ってしまった。
七日目、りゅうさんがおばあちゃんの看護に呼び出された。僕が帰る日までには必ず戻って来ると言ってくれた。
八日目、ベランダからの景色を家へ持ち帰りたくて、集中して一生懸命素描をしていた。人が近づいて来るのがわかった。あやねさんか、かおりさんだ。肩ごしから覗き込まれた。
「お兄ちゃん見せて」
どきっとした。小学生くらいの女の子だ。心臓の鼓動が強くなった。どくんどくんと脈打つ感覚が伝わってくる。もうひとりいたのか。静かに、ゆっくりと深呼吸するように息を吐き出した。描きかけたものを手渡した。会話は受けに徹した。安心感を保ってもらうように女の子の望みをすんなりと受け入れた。女の子が自分のことについて話し出す。笑顔を絶やさず、質問もせず、何事も肯定的に聞き入れた。女の子が満足するまでつき合った。慣れてきた頃を見計らって、あやねさんやかおりさんのことを訊いた。なにも話してくれなかった。二時間後に女の子は去った。
僕は彼らの家族として近づいているような気になっていた
九日目、先日から新しい絵を描いていた。今日中に完成させたい。明日には帰らなければならないからだ。「最後の晩餐」をヒントに彼らの絵を完成させた。夜になればりゅうさんが帰って来る。みんなに見てもらいたい。
十六時頃、ベランダで風景を描いていると、また女の子が現れた。僕の知らない扉が、ひとつ、またひとつ、開かれていく。受け入れる心の準備も対応策もないまま解放されていく。大丈夫。ゆっくり話せばいい。知らぬ間に十八時を過ぎていた。女の子に気を取られていたので、秀介さんが帰って来たことに気づいていなかった。
「お前、そこでなにをやっている」
秀介さんの声。驚いて振り向いた。目が合って瞬時に竦んだ。秀介さんが猛禽類のような鋭い目付きで僕を睨んでいた。喉が固まってくる。表情が強張っていく。胸ぐらを掴まれ引き上げられた。
「はっ、話を、していただけ」僕の顎がうまく動かない。
「勝手なことをするなよ」
僕は一八〇度方向転換させられて殴られた。テーブルにぶつかり床に倒れた。女の子が泣き出した。一瞬、秀介さんが女の子を見た。すぐさまソファーに置いてあった鞄を投げつけられて怒鳴られた。
「みんなを壊す気か。なにも知らないやつが余計なことをするな。今すぐ出て行け。俺たちの城を勝手に掻き回すんじゃねえよ」
秀介さんの啖呵切りも凄かった。普段、「僕」と表現している人が「俺」と言い換えられると怖さが倍増する。一言一言区切るごとに、一歩一歩詰め寄られる。僕は床についている下半身を両手の力で引きずるようにして後退った。
「早く出て行け」
僕は鞄を拾い上げ、背を見せて逃げ出していた。
初日、三人で笑いあいながら来た道を、青ざめて、引きつった顔で、涙を流しながら走っていた。券売機の前で手が震えていることを知った。うまく小銭が入れられない。電車が来た。慌てていた。乗車に焦っているのか、逃げ出したくて焦っているのか、なにもわからなかった。見てはいけないものを見てしまった罪悪感に囚われていた。乗車中、時間の感覚がなく、景色も記憶に残っていない。思い出すのは秀介さんの目だ。唾を呑み込んで深呼吸をする。東京駅で殴られた頬が痛いと感じ始めた。乗車券を買うとき指定席にした。見知らぬ他人であっても泣き顔を見られたくなかったからだ。故郷行きのホームでスケッチブックを忘れたことに気づいた。こめかみが痛いうえに後頭部を殴られたような痛みも感じる。しかし、いまさら取りには戻れない。乗車中、指定席で体育座りのように膝を抱えていた。歓迎された初日を虚しく思い出す。
大切なのに傷つけてしまう。
大事なのに壊してしまう。
大好きなのに離れてしまう。
どうして笑顔で過ごせないのだろう。
どうして身近な人を怒らせたのだろう。
どうして他人とうまくできないのだろう。
自分が軽薄でどうしようもないばかに思えてきた。自己嫌悪に陥っていた。
順調に進んでいると思って安心をすると、足下をすくわれるものだと知った。
夜遅くに玄関のドアを叩き、両親にびっくりされた。一日早く帰って来たことで、なにかあったのかと心配された。うつむき加減にして殴られた頬を隠した。無言で自分の部屋へ直行した。
夜遅くにりゅうさんから電話がかかってきた。
「大丈夫か」と第一声に訊かれた。短い返事で肯定した。りゅうさんが謝る必要もないのに丁寧に謝られた。
「迷惑をかけてすみません」
僕も謝った。りゅうさんの話では、僕が出て行った一時間後に、りゅうさんが帰宅したらしい。僕が部屋にいなくて、かおりさんが泣いていた。なにが起きたのか秀介さんに訊ねた。秀介さんの言い分が終わらないうちに、「俺の恭介を勝手に追い出しやがって、俺の大事なものを勝手に奪うな」とりゅうさんが秀介さんを殴った。
「僕は大事なものを守ろうとしたつもりだ」と秀介さんも反論して、取っ組み合いになった。二人が揉み合っているとき、あやねさんが現れて二人を仲裁した。
「秀介は俺たちに隠し事をしているくせに」
りゅうさんが不信感を抱く言葉を強く吐き出した。
りゅうさんの話を聞いて、みんなの仲を悪くした僕は謝った。
「恭介が謝る必要はない。俺はお前に会いたいよ。お前と話がしたい」
最後にうれしい言葉を言ってくれた。切れていなかった。離れていなかった。彼らとの関係がこれで終りじゃなかった。心が震え、言葉が詰まり、僕は泣いていた。
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