「クロスロードの靴」 12

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「クロスロードの靴」 12

 かおりさんはアルバイトを順調にこなしていた。最初は声が小さいと注意を受けていたが、今ではマニュアル通りに接客ができている。職場環境は良い方だ。日を重ねていくと、同じ店員さんとも気心が知れてくる。同い年の女の子がよく話しかけてくれた。 「明菜(あきな)はねえ」と自分のことを常に名前で呼ぶところが稚拙だが、異性の店員には抜け目なく甘え上手なところがあり、かおりさんは一見軽い感じの印象を持っていた。しかしながら仕事ができないわけではない。男性客には受けが良く、注文後にお勧めの追加一品を上手に売り込む。ときおり店長へのおべっかには同性から鼻持ちならぬ女と反感を買っていたようだ。このタイプの女性は意外と鼻が利き、集団の中で自分に優しい人を選ぶのが上手だ。園部(そのべ)明菜(あきな)はかおりさんに懐いていた。周りの女性は自分が関わらなくてすむ分、気分的には楽で、自分たちの中でかおりさんを『明菜取り扱い担当』と勝手に決めつけ、暗黙の了解事として、二人から一定の距離を保っていた。当然、かおりさんも他の女性との会話が少なくなる。職場での人間関係は広まらず、明菜と二人で昼食時間を取るようになっていた。他の休憩時間も二人だけになることが多く、「かおりさんの家へ遊びに行っていい。行ってもいいよね」と明菜から何度もお願いをされた。かおりさんはその度に断り続けていたけれど、明菜のしつこさに押し切られてしまった。 「ルームメイトがいるけど、いいですか」と訊けば、「明菜の友達が増える」と大はしゃぎをされた。明菜への気遣いは心配ご無用となる。それどころか手帳を取り出していた。 「明菜は木曜日があいてる。時間はバイト後ね」と自己中心的に予定を決める。かおりさんが了承する間もなく、明菜の話がどんどん進められていく。 「お泊まりの準備が」と明菜が言いかけたところで話をストップさせた。かおりさんがもう一度話を戻そうとしたときには、話し終えたことはすべて了承済みとして明菜に受け取られていた。 「じゃあ木曜日ね。楽しみにしているから」と握手までされた。  みんなに相談をする余地もくれなかった。かおりさんは困ったことになったと悩んでいたが、最近の険悪(けんあく)な雰囲気を解消するには、第三者を入れた方が(なご)むのではないかと考え直した。特に、りゅうさんにとっては、不利な多数決になるよりも、二対二の同数になる状況を考えれば、雰囲気的には良くなるのではと思っていた。    約束の日、帰り道でケーキ屋さんへ立ち寄った。明菜に同居人の人数を訊かれたとき、正直に七人とかおりさんが答えた。「かおりさんの住んでいる部屋は大部屋ですか」などと言って明菜が大笑いをする。八種類のケーキを買って持ち帰った。  部屋へ入ると明菜がきょろきょろと周りを眺め回す。みんなはまだ帰っていなかった。とりあえずかおりさんはほっとした。事前に相談できなかったかおりさんはどきどきしていた。  りゅうさんが帰宅した。二人がテーブルに腰かけているのに気づいて、りゅうさんが目を見張った。明菜が上機嫌であいさつをする。「誰」と怪訝な顔でかおりさんに視線を合わす。視界外で、明菜が軽薄に名乗る。かおりさんがあたふたして説明をした。 「アルバイト先の友達が私の住んでいる部屋に来てみたいと言われて」言い訳の途中で、「ほう。それで」とりゅうさんが素っ気なく訊ね直す。かおりさんが言葉を失った。かおりさんの隣ではなく、明菜の隣に腰を下ろした。明菜とりゅうさんが自己紹介をした。 「かわいいじゃん」  りゅうさんが本心ではないほめ言葉を言う。明菜が喜んでいる。 「この状況はあやねが考えたこと」  りゅうさんがわざと名前を間違えた。 「かおりさん、ニックネームがあるのね。かっこいいですね」  事情を知らない明菜が感激した。 「俺にも、としやって言う別の呼び名があるからな。かっこいいだろ」  りゅうさんが自慢げに主張した。かおりさんが萎縮(いしゅく)していく。明菜がますます感激してほめた。 「まるで偽善の世界だろ」  りゅうさんが皮肉った言い方をした。 「偽善だなんて、かっこいい表現ですね」  明菜が深く考えもせず、ほめたたえる。りゅうさんはかおりさんの存在を無視して、明菜と話を続けた。居た堪れなくなって、かおりさんが席を立とうとした。 「かおりさん、明菜、ミルクティーが飲みたくなった。買ってきて」  明菜がずうずうしくかおりさんにお使いを頼んだ。この場を離れられる理由ができて、かおりさんが聞き入れた。財布を手に持ちドアを開ける。外へ出た途端に駆け出していた。レジを済ませてもすぐには帰れなかった。三十分ほど時間を潰して部屋へ戻った。  玄関に入ったところで、微かだが艶めかしい女の声が聞こえてきた。愕然として自分の部屋へ逃げ込んだ。薄い壁から嫌悪する声と振動が伝わってきた。かおりさんは胴震いしていた。こんな状況になったのは私の責任だと自分を責めた。下品な声が大きくなる。鳥肌が立ってきた。かおりさんは一冊のノートを手に取りベランダへ逃げた。サッシを閉めると声が途絶えた。それでもかおりさんは耳を(ふさ)いでいた。体が震えてくる。壊れそうになって自分を抱きしめていた。自分の浅はかな考えが原因だから、りゅうさんに怒ることなどできない。秀介さんに早く帰って来てと望みながら、第三者を招き入れたことを知られたくないとも思っていた。複雑な心境が渦巻く。どれほど時間が経過したのか感覚的にもわからなかった。下を眺めていた。秀介さんの姿が小さく見えた。サッシから玄関を見張っていた。ドアが開くと同時にサッシを開け、手招きをした。秀介さんがかおりさんに気づき、靴を脱いで歩を進める。りゅうさんの部屋の前で立ち止まった。かおりさんが強く手招きをした。部屋を気にしながらベランダへ駆け寄った。かおりさんは秀介さんをベランダへ引き込んでサッシを閉めた。かおりさんは部屋が見える場所から逃れるように横へ移動する。かおりさんが座り込む。肘あたりの服を掴まれていた秀介さんも同じように座り込んだ。秀介さんがなぜこんなことになっているのか、かおりさんに事情を訊ねた。かおりさんは何度も謝りながら説明をした。 「あいつはどういうつもりだ」  秀介さんが怒りを剥き出しにして立ち上がろうとした。かおりさんが秀介さんの腕をぎゅっと掴んで制止した。 「お願いだから揉め事だけは」  かおりさんが懇願(こんがん)した。かおりさんの涙ぐんだ目を見て、秀介さんが冷静さを取り戻した。無言のまましばらく座り込んでいた。 「東京の夜景でも星が見えるのね。知らなかったな。全然気づかなかった」  かおりさんが心に押し込んだ話題を()けようとしていた。かおりさんの気持ちを理解した秀介さんが言葉を合わした。 「ほんとだ。意外と綺麗な星空だ」  二人は同じ方向を見つめていた。かおりさんが抱きしめているノートに、秀介さんが気づいた。 「抱えているものはなに。ちょっと見せて」 「えっ、なんでもない」  かおりさんがうしろへ隠す。 「いいじゃない。見せてよ。無理にとはいわないけど」 「絶対にだめっていうわけじゃないけど、恥ずかしいから笑わないでよ」 「笑うわけないよ」  かおりさんが照れくさそうにノートを差し出した。受け取った秀介さんがノートを見た。表紙には「ガラスの城」とタイトルが書かれていた。ノートを見つめ、「これは」と訊いた。かおりさんが赤面して打ち明けた。 「私、詩を書いていたのよ。まだ少しだけど、これからひとつ、ふたつと書きためていこうかなと思って。それで、恥ずかしいけど、いつか詩集にできればいいなって。私の夢。誰にも言わないでね」 「言わないよ」と約束をしたけれど、「誰にも」とは、誰を指しているのだろうか、秀介さんは言葉をのみ込んだ。 「じゃあ読ませてもらおうかな」 「短いのもあるからね。ちょっとどきどきするな」  部屋からもれる明かりを照明がわりにして、表紙を捲った。  題名が大きな文字で書かれていた。
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