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「クロスロードの靴」 2
平成五年四月一日、彼らは簡単な引越しを済ませた。
引越しが午前中で終えられたのは、年明けから準備をしていた計画の良さからではない。
としやさんとりゅうさんの荷物はとりあえずスポーツバッグ二つ分で、あやねさんとかおりさんの荷物にいたってはボストンバッグ一つだけ。まるで隣の町へ行って、スポーツでもするような感じで、荷物が少ない。秀介さんは、自分が過ごした痕跡を実家からすべて消し去るようにあらゆる荷物を運び込んでいた。
今、部屋の掃除をしているのは、かおりさんとりゅうさんと秀介さんの三人だ。家事が苦手なあやねさんと環境の変化に適応しがたいとしやさんは姿を消した。
それぞれの部屋は右側に三部屋が並んでいる。入り口から六畳の洋間にとしやさんとりゅうさんが、真ん中の六畳の洋間にあやねさんとかおりさんが、ベランダに接した四畳半の洋間に秀介さんが入居した。左側には入り口から、便所、洗面所、お風呂、ダイニングキッチン(七畳半)の順に並んでいた。
机、本棚、ベッド、衣類、ダンボール箱六つを秀介さんの部屋に運び終え、りゅうさんが浮かぬ顔をして部屋から出て来た。秀介さんがお礼を言ったとき、りゅうさんの返事は素っ気ない。秀介さんが気にもとめない表情で、りゅうさんの荷物について訊ねた。明日、おじいちゃんが衣類と蒲団を送ってくれるという。
りゅうさんが小学生のとき、両親が交通事故で亡くなった。
その後、伯父さんとおじいさんがりゅうさんを育ててくれた。それに加えて大学まで行かせてくれるようになった。りゅうさんには伯父さんから生活費として月々五万円の仕送りがされる。
ただ伯父さんとおじいさんは仲が悪い。
あやねさんとかおりさんは、同居していた伯父さんや伯母さんとは気が合わず、というより嫌悪しているようで、身軽な荷物だけを準備し、まるで家出同然で飛び出してきた。大学や専門学校へは行かず、アルバイトをして稼ぐという。
秀介さんは父親から月々八万円もの仕送りがあり、今回の入居では敷金二ヶ月分と礼金二ヶ月分まで支払ってくれた。秀介さんを見ていると、それほど裕福そうには見えないが、太っ腹なお父さんだ。だからこそ家賃九万円の賃貸マンションに転居できたのだろう。なぜだかわからないが、この部屋は同じ賃貸マンションの中でも家賃が安いらしい。
次に、あやねさんとかおりさんの寝具や共同生活に必要な食器類とか日用品などをそろえるために買い物へ行くことにした。
かおりさん、りゅうさん、秀介さんの三人がそろって出かける。
かおりさんは食器選びを楽しんでいる。同じコップを購入するとき、赤、橙、青、緑、白と色を分けて選んだ。
りゅうさんと秀介さんは四人用の白い食卓テーブルを選んできた。
部屋へ戻り、二人がテーブルを組み立てる。これらの費用も秀介さんのお父さんが十万円も別途用意してくれていた。
秀介さんのお父さんから援助がなければ、彼らが地元を離れて同居することなどありえなかっただろう。少なくとも身内からの援助がない、あやねさんとかおりさんはみんなと共同生活をしなければ、路頭に迷って良からぬ道へ歩み出していたかもしれない。
部屋が落ち着いた頃、あやねさんが現れた。
「頼んでいたポテチは」
あやねさんが秀介さんに訊ねる。秀介さんはきょろきょろと辺りを見回し、左右に顔をふった。
「ちゃんと頼んでいたのに」
あやねさんが不満げに言う。かおりさんが玄関口に買い物袋を置いたのを思い出し、秀介さんが小走りで玄関の方へ探しに行った。
あやねさんが受け取ったスナック袋を開ける。三枚摘んでばりばりと食べる。袋の開け口を秀介さんに向けてお裾分けをする。「りゅ」と言いかけて、秀介さんの顔を見る。「としや」と訊いた。秀介さんがうなずいた。
「じゃあ、これを食べてから戻るね」
あやねさんが言えば、秀介さんが小さくうなずく。
としやさんはテーブルに腰をかけて、ノートに目を向けていた。両膝をくっつけて、背筋を伸ばし、正しい姿勢で座っている。なにやらぶつぶつと独り言をもらしながら考え事をしていた。
秀介さんがとしやさんの隣に座った。
「なにをしてるの」
秀介さんがノートを覗き込んだ。
敷金二ヶ月 →十八万円。
礼金二ヶ月 →十八万円。
管理費→無し。
四月の賃貸料→九万円。
生活用具 →四万七千円。
合計 →四十九万七千円。
奥田秀介(父より)負担。
今後の生活費として
家賃 →九万円
光熱水費等 →九千円。
共同日用品費→九千円程度。
食費代 →九万円。(一日三千円×三十日分として)
合計 →十九万八千円。
了承済みのふり分け。
秀介
家賃 →五万円。
光熱水費等 →三千円。(電気・ガス・水道等)
共同日用品費→三千円。(洗剤・台所関係・部屋関係・お風呂関 係・トイレ関係等)
食費代 →三万円。
合計 →八万六千円。
としや
家賃 →二万円。
光熱水費等 →三千円。(電気・ガス・水道等)
共同日用品費→三千円。(洗剤・台所関係・部屋関係・お風呂関 係・トイレ関係等)
食費代 →三万円。
合計 →五万六千円
あやね・かおり
家賃 →二万円。
光熱水費等 →三千円。(電気・ガス・水道等)
共同日用品費→三千円。(洗剤・台所関係・部屋関係・お風呂関 係・トイレ関係等)
食費代 →三万円。
合計 →五万六千円
足りない分は各自で節約をする。
その他は各自の自由とする。
「としや、これはなに」
「今後のために生活費を計算していました。ちゃんと計算して、計画性を持たなければ、ずさんな生活はすぐに破綻するから」
としやさんがか細い声で説明した。秀介さんがノートを手にした。
生真面目なとしやらしいが、それにしてもこんな風に分割しなくても、みんなで助け合っていけばいいのに。秀介さんがノートを返して言った。
「としや、生活費が足りなければ、その都度みんなで助け合うっていうのはどう」
仕送りだけでは最少額でも六千円が足りない。自分ではどうすることもできない。としやさんは秀介さんの意見を素直に受け入れた。
かおりさんが現れて、としやさんの対面に腰をかけた。
「見てもいいですか」
としやさんのノートを半回転させて、じっと覗き込んだ。
「几帳面に書き出しているのね」と見ながら、「時給六百円から七百円だと、一日八時間労働で、四千八百円から五千六百円。月に二十日間働いて、九万六千円から十一万二千円。これなら充分やっていけそう。これがみんなのルールですね」と微笑んだ。
としやさんが満足そうな笑みをこぼした。
「じゃあ、あやねさんと交代するね」
かおりさんが二人に断りを入れてから、椅子の背もたれに衝撃を与え、上半身がかくんと前屈みになると、あやねさんが現れた。
「ふんふん」とあやねさんはかおりさんと違って興味を示さなかった。としやさんにノートを手渡して、「なるようになるか」と秀介さんを見て言った。
「最後はりゅうだな」
秀介さんがつぶやくと、としやさんは眠るように目をつぶった。
「ああもう、この焦げ臭い臭いは好きになれないぜ」
りゅうさんが文句を言いながら現れた。
秀介さんがあやねさんに顔を向けて、「そうなの」と訊いた。
「あたしは感じたことがない」
「人それぞれか」
りゅうさんがノートを手に取り、「話は聞いていたよ。いつもながらあいつは細かいなあ。でも秀介のおかげで俺たちの生活もどうにかなりそうだな」と感謝しながら納得した。続けて、「他にも必要になってくる物がでてくるだろうな」と秀介さんに顔を向ける。
「少しずつそろえるとするか」
あやねさんとりゅうさんが秀介さんの言葉にうなずいた。
彼らは互いに気遣いしながらも、地元を離れた自由を感じていた。
この日から彼らの新しい生活が始まった
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