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「クロスロードの靴」 3
平成五年といえば、サッカーのJリーグがスタートし、曙関が外国人初の横綱になり、皇太子様と雅子様のご成婚と、新時代を思わせるニュースで世間をわかした。そういえばジュリアナ東京なんてものも流行した。東京の赤坂近辺では、零時を過ぎてもタクシーの一時間や二時間待ちは当たり前といった感じで、まだまだバブルの名残はあったと、東京の会議に出席した父が言っていた。
入居して間もない頃、りゅうさんが大きな荷物を運んできた。
「そのテレビはどうしたの」
秀介さんが驚きながら訊いた。りゅうさんがサッシの前まで運んで下ろした。
「まさか盗んできたわけじゃないでしょうね」
あやねさんが訝しげに訊いた。
「違う違う。近所を走ってると、今頃引越しをしてたんだ。よく見るとテレビが外に出されてたから、荷物を運んでいる人に訊くと、捨てる物だと言うからもらってきたの。だから盗んでない」
りゅうさんは顔を赤らめて説明した。
捨てる物とはいえ、まだまだ充分使える代物だ。使い捨ての時代が、この街にはまだ存在していた。
「そういえば、ラジカセもあったような」
りゅうさんが思い出したように報告をすれば、「早く言えよ」と秀介さんがりゅうさんに道案内をさせて出て行った。
翌週には、別の場所で三人用のソファーが粗大ゴミとして出されていたのでもらいに行った。
「家具がお金の負担なしでそろうなんて、俺たち貧乏人には良い時代だ」と彼らは喜んだ。
冷蔵庫だけは気持ちが悪いからお店で買うことにした。
「しばらくは不便だけど、冷蔵庫は来月にしようか」
彼らの身近な目標が決まる。夕食が済むと、「ちょっと家へ電話をしてくる」と言って、秀介さんが公衆電話を探しに行った。
「引越しのことでは、お父さんにお金を出してもらったり、保証人になってもらったり、いろいろ迷惑をかけているから、ありがとうの一言くらい伝えに行ったのかな」
りゅうさんが想像して言った。あやねさんは「たぶん」とうなずいた。りゅうさんが筋トレを始め、あやねさんは自分の部屋へ入った。
秀介さんは大学が始まるまで部屋のことばかり考えていた。
必要最小限の物はそろえることができた。そのつもりがいざ生活を始めると、他にも必要な物があった。すぐにそろえられる物もあれば、翌月の仕送りを待ってそろえた物もある。その間、秀介さんは家へ連絡をしていた。
「親子で毎日電話とは、律儀と言うよりもちょっと変だな。毎回お金の無心をしているわけじゃないと思うけど」
りゅうさんが訝かしがっていた。
「でも、お父さんのおかげでみんなの生活がスタートできたわけですから。家との関わり合いについては黙認してあげないと、ばちがあたります。りゅうさん、感謝、感謝」
かおりさんが食器の洗い物をしながら秀介さんを弁護した。
「そうじゃなくて、資金面では秀介に負担をかけすぎているから。あいつ、なんでもわかったって言うだろ」
「そうですね。私も早くアルバイトを探さないとみんなのお荷物になっちゃう」
「お荷物だとは誰も思ってないよ。そんな言葉は使うなよ。確かに年が明けて、『この町を出てみんなで同居しない』とお前たちが提案してきたことだけど、こうなったのは、みんなそれなりに考えて決めたことだから。俺たちが迷惑がっているような言葉は二度と言うなよ」
かおりさんはりゅうさんに謝り、食器洗いを続けた。
りゅうさんが、いや、としやさんが大学に通うようになった。正確には、としやさんが授業だけ出席した。外の世界が苦手なとしやさんは室内以外で現れることはしない。外出するときや新しい場所ではりゅうさんが現れていた。
あやねさんとかおりさんは、時と場合によって二人が決めていた。かおりさんはとしやさんと違って、外への苦手意識は持っていない。ただ同居人以外の人間関係は苦手なようだ。
秀介さんは物静かなだけで、苦手なことはみあたらなかった。みんなの生活をできるだけフォローしているという風に思えた。
日本プロサッカーリーグ、いわゆるJリーグが誕生した頃に、電話のことで少し揉め事が起きた。きっかけはりゅうさんの一言だ。
秀介さんの電話癖が続いていた。りゅうさんが大学の帰り道に公衆電話で話をしている秀介さんの姿をたびたび見かけていた。
「秀介のためにも部屋に電話を置かないか」
「いいよ。僕は不自由していないから」
りゅうさんの気遣いが通じず、無下に却下された感じになり、りゅうさんが秀介さんを非難した。
「俺たちに聞かれるとまずい話でもしているのか」
「そんな話はしてないよ」
秀介さんが反論した。
秀介さんを弁護したあやねさんの言い方も悪かった。
「あたし、電話をする人などいないし、置くだけで基本料金がかかるのはもったいない」
「自分のことだけ考えるなよ」
「あたしは秀介がいらないって言ってるのに、りゅうがつっかかるから。それに、かおりも言ってたけど、あたしたちはみんなに負担をかけているから、ちょっとは気兼ねもあって」
「それは二度と言わない約束だろ」
「約束ってなんだよ。僕は聞いてないぞ」
「とにかく、俺たちの知らないところで、こそこそされるのはいやなの」
「僕はこそこそなんてしていないだろ」
売り言葉に買い言葉となり、益々状況が悪くなっていく。事態に収拾がつかなくなって、怒気を含んだ声が感情を荒立てる。あやねさんが泣きだした。
「もうやめてよ。大きな声を出さないでよ。けんかをするためにみんなを誘ったわけじゃない」
りゅうさんがとしやさんに替わり、あやねさんがかおりさんに替わり、秀介さんがうつむいたまま床に座り込んだ。
「どうしたの」
事の次第がわからず、としやさんが秀介さんに訊ねた。かおりさんは心配そうな顔をして秀介さんを見つめていた。
「ごめん。ちょっと疲れていただけ。なんでもないから。大丈夫だから。みんな心配しないで。ごめん」
秀介さんがうなだれた。
秀介さんにはアイスコーヒーを、としやさんにはホットミルクを、かおりさん自身にはミルクティーを淹れた。
三人が輪になり、無言に近い状態で時間を過ごした。静寂な空間が深更に及んでいく。
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