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「クロスロードの靴」 4
翌日、かおりさんがアルバイトを見つけてきた。報告はあやねさんがした。
「駅近くの喫茶店。なんと時給が六百円」
あやねさんが両手を腰にあてて胸を張る。りゅうさんと秀介さんが拍手でお祝いをする。「それだけ」と不満顔を見せるあやねさん。
「アルバイト料が出ればちゃんとお祝いをしてやるよ」
りゅうさんがあやねさんを説得する。秀介さんのうなずきにあやねさんもつられてうなずいた。りゅうさんがあやねさんに訊いた。
「それで、どちらが働くの」
「そりゃあ、かおりに決まっているじゃん」
あやねさんが他人事のように断言した。聞かされた二人が苦笑した。
とりあえずみんなのスクラムが一歩前進した夜だ。
皇太子さま、雅子さんの「結婚の儀」はテレビで観ても、心が躍った。としやさん、かおりさん、秀介さんがソファーに腰をかけて釘付けとなる。皇居から東宮仮御所までのパレードでは思わず拍手をした。画面に映る国民も喜びに満ちた笑顔で祝福をしている。ケーキを買ってきてお祝い事のご褒美。ひとつの思い。同じ思い。世間と共有できた。彼らが自分たちも同じ日本人だと思えた日だ。
六月下旬になり、かおりさんのアルバイトも一ヶ月を過ぎた。
朝七時から十六時まで、休憩の一時間を除いて八時間勤務。
五十歳のマスターは少し白髪交じりで細面、穏やかな口調でしゃべり、いい人だ。なにはともあれ順調に続いている。
秀介さんは毎日真面目に大学へ通っている。
問題はりゅうさんだ。としやさんは生真面目でも室内に限ってのことだ。大学に行かなければ勤勉な長所を活かせる機会はない。
二十時頃、りゅうさんが顔に痣を作って帰って来た。
「りゅう、顔の傷はどうした」
秀介さんが近寄り、顔を覗き込みながら訊ねる。かおりさんがりゅうさんの顔に驚いて、あやねさんと入れ替わった。
「なんだ、りゅう、負けたの」
あやねさんがからかうように笑う。
「この俺が負けるかよ。でも相手が三人だから、こっちも一発だけ殴られた」
「どこでだ」
「新宿だよ新宿」
「新宿って、大学とは逆方面だろ。どうして新宿に行ってた」
「ちょっといらいらしてたから。ほんの気晴らしだよ。息抜き。歌舞伎町を歩いていたとき、そこでちょっと肩をぶつけて、リーダーぽいやつと口論になってさ。横にいたやつがいきなり殴りかかってきた。一発くらったあと最初の男には正拳突き、次は後ろ回し蹴り、三人目は前蹴りにフックでノックアウトした。小さな姿でおまわりさんが走って来るのが見えたので逃げたというわけ」
「原因はなに」
「だから今話したじゃないか」
「りゅう、そうじゃないよ。いらいらの原因じゃないか」
あやねさんがオキシドールでりゅうさんの顔を消毒した。
「伯父さんからの仕送りがまだ振り込まれていないんだ」
りゅうさんが困った顔をして説明した。
「じゃあ電話をすればいいじゃないか」
「秀介、簡単に言うなよ。俺にとっては気が重いことだからよ」
「気が重くても、仕送りをしてもらっている身だろ」
「わざわざ公衆電話まで行く気にならないよ」
「じゃあ、部屋に電話を設置するか」
以前のように話は壊れなかった。二人の意見が対立すると平行線になる。意地を張って物事が解決しない。悪い結末は物別れで生活が続かなくなる。しかし、今回はりゅうさんにも電話が必要になった。秀介さんもがまんする必要がなくなる。二人が納得したなら、調和が取れる。あやねさんもかおりさんも納得する。としやさんはかおりさんか秀介さんが説明をすれば一応うなずいてくれる。議決は満場一致となる。
一週間後に電話が設置された。
いまだにりゅうさんへの仕送りが振り込まれていない。電話の使用第一号はりゅうさんがすることになった。
「やっぱり緊張するな。なんてよ」
りゅうさんは作り笑いをして、冗談みたいな言い方をする。
「ほら、電話をしたくないのはわかるけど、気持ちをごまかしてないで、早く伯父さんに電話しろよ」
秀介さんに本心を見抜かれて、りゅうさんがしぶしぶ電話をかけた。長電話になった。
「仕送りをしてもらっている身で、ちゃんとお願いの連絡くらいしろ」
りゅうさんは伯父さんからいろいろ嫌みと文句を言われた。
「結局は仕送りストップの嫌がらせかよ。まいったな。食べさせてもらっているからには頭をさげるしかないよな」
りゅうさんが電話を切って愚痴を言う。
秀介さんがりゅうさんの気苦労を労い、背中をさすった。
「りゅう、ブラックコーヒーを煎れたからここへ置くよ。プロ直伝だからね」
あやねさんが気を利かしてテーブルに置く。次に秀介さんが家へ連絡を入れ、電話番号を報告した。息子との連絡がいつでもできるようになり、お父さんは安心したようだ。
「物わかりのいい親で、秀介はいいよな」
りゅうさんが拗ねたように言って、うらやましがった。
七月に入って、上機嫌のりゅうさんが帰って来た。
りゅうさんは秀介さんを急かすように誘う。
以前家具があった場所に、まだ乗れる自転車があったと喜んでいた。
「いくら捨ててあるとはいえ、自転車には登録番号とか持ち主がわかるようになっているから、拾ってきても警察に見つかれば盗難として扱われるからだめ」
あっさり却下された。「そうなの」、「そう」と掛け合いのようなかわいい受け答えに、かおりさんが笑った。
かおりさんは秀介さんと二人のときはよく現れるけど、りゅうさんがいるときはあやねさんと入れ替わるようになった。
あやねさん、りゅうさん、秀介さんの三人が食事を済ませ、テーブルで会話をしていた。
「みんながそれぞれのことをどう思っているのか訊きたい」
あやねさんが突然言い出した。秀介さんとりゅうさんがきょとんとした。あやねさんが勢いに任せてみんなのことを批評した。
「としやはがちがちの真面目人間で陰気かもしれないけど、いたって普通だよね。りゅうはちょっと気が短くてけんかもするけど、あたしらには一応りゅうなりに気を遣っているのも伝わってくるじゃない。秀介はみんなに気を遣いすぎ。嫌みじゃなく、逆にこっちが申し訳なく思うけど、世間では普通に目立たない若者だよね。それで終り。次はかおりで、その次はとしやだから」
あやねさんが勝手に順番を決めてかおりさんに替わった。
押し出されるように出て来たかおりさんは困った顔をしていたが、あやねさんに先日から強引に言い含められたようで、恥ずかしそうにしながら感謝に近い言葉でみんなの印象を伝えた。
「としやさんは物静かで、穏やかで、真面目で、話を合わせてくれる。りゅうさんは頼りがいがある。秀介さんはいつも私の意見や思いを尊重してくれるからうれしいです」
かおりさんが話し終えた。
としやさんの思っていることは、かおりさんが先日訊いているという。としやさんは思っていることを正直に話してくれた。
「かおりさんは急かさずにじっくり話を聞いてくれるからうれしいけど、あやねさんはたまに怖いときがある。秀介さんは常識的だから話が合います」
かおりさんがとしやさんに代わってみんなに伝えたあと、あやねさんと交代した。あやねさんがりゅうさんを指名した。
「俺はみんなに満足している」
りゅうさんは一応好印象的な表現をした。
「じゃあ最後に秀介」
あやねさんが指名した。秀介さんはあやねさんの意図がわからず、まず聞き返した。
「どうしてそんなことを訊きたいのか理由を言ってよ。意味もわからずに人を批評するようなことはしたくない」
調子よく進んでいた批評会を中断されて、あやねさんはがっかりした。あやねさんは矛先を変えて、りゅうさんに訊ねた。
「ねえ、りゅう、あたしたちって、どうして怪物みたいな存在として認識されなくちゃいけないの」
「急になんだよそれ。俺、知らない」
りゅうさんは意味がわからず、答えにならない返事をして聞き流そうとした。秀介さんがあやねさんの真剣な表情を見て、ちゃんと真意を汲み取らなければと、二人の話に割って入った。
「あやね、なにが言いたいのか、抽象的じゃなく具体的にわかるように言ってよ」
「だって、あたしたちの存在って、ドラマや小説では忌み嫌われているじゃない」
「どういう意味」
秀介さんが理解に苦しむ言い方で再度訊ねた。
りゅうさんは話の内容が見えたので黙ってソファーへ移動した。
あやねさんは興奮して秀介さんに詰め寄るような言い方をした。
「だって、多重人格者って、必ず事件を起こすように決めつけているじゃん。そう作られているじゃない。だから思っちゃうのよ。あたしたちって、誰もが犯罪者なわけ。それとも化け物なわけ。異常なわけって」
秀介さんは押され気味になって受け答えをした。
「誰もそんなことは言ってないでしょ」
「それは秀介の受け取り方であって、世間では危険なキャラクターとして、嫌悪される存在として、時には悪として位置づけられているじゃない」
「世間がすべてじゃないでしょ。偏見に負けちゃいけないでしょ。多数認知が必ずしも正しいわけじゃない。確かにりゅうは喧嘩早いよ。先日も新宿でけんかしてきたけど、それにはそうなっただけの理由や原因もちゃんとあった。としやは世間との関わりは苦手だけど、いたって真面目で物静かな人間だよ。かおりだって、多少人間関係が苦手なだけで、恐がりで温和しい性格の持ち主って考えればどこにでもいる女の子だ。あやねだって、活発で明るくて、ちょっと言葉が乱暴でも人を傷つけるようなことはしていない。周りの人間だって、喜怒哀楽くらいは持っている。みんなの個性が豊かなだけで、他人に対して自分からはなにも悪いことをしていないよ。僕たちの存在が悪いことにはならない。僕は、ちゃんと気遣ってくれるみんなが好きだよ」
「そんな風に思ってくれているのは秀介だけじゃないかな」
「そうは思わないよ。だって、世間ではいじめや虐待が増えているだろ。実態として、僕たちと同じ様な境遇の人が増えていると思うよ。でもニュースの事件を観ても、すべての原因が僕たちのような境遇で起きているわけじゃない。僕たちはいたって普通の生活を営んでいると思うよ」
「わかった。でも四分の一かあ」
残念がるあやねさんに、「なんの話」と理解できない秀介さんが不思議そうに訊いた。
「なんでもない」とあやねさんが笑う。
りゅうさんは二人を眺めながら、終始無言を保っていた。
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