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「クロスロードの靴」 6
八月だというのに涼しさを感じた。テレビのニュースでは、今年は冷夏らしい。世間では米の出来具合が心配されていた。
ベランダへ出て風にあたると気持ちがよかった。僕はベランダから見る景色が好きで風景をデッサンした。かおりさん、あやねさん、秀介さん、りゅうさんにほめられた。としやさんからは、構図が悪いとか、線のタッチがとか、だめ出しをされた。さすがに手厳しい。
「でも筋はいいかも。本格的に習えばまだまだ伸びます」
最後の批評に救われた。笑みがこぼれた。僕は絵を手にとって見つめていた。
日曜日の十八時頃、りゅうさんが困った顔をして帰って来た。
かおりさんと秀介さんがテーブルに座り、僕はソファーに座っていた。
「りゅう、そんな顔をしてどうした。何かあったのか」
「いや、ちょっとまずいことしちまって」
秀介さんが詳しく訊ね、どうしてそんなことをしたと非難した。
出来事は、りゅうさんがデーパートへ行き、トイレに入って、としやさんと入れ替わったらしい。りゅうさんにとってはほんの悪戯のつもりが、としやさんがパニックになった。
戸惑いながら周りを見回しても覚えのない場所。見知らぬ場所で閉じ込められ、不安になり、呼吸が苦しくなってきた。気づくと自分は洋式便器に腰をかけていた。四方囲まれた板の向こう側から聞いたことのない男の声がした。知らぬ人が会話をしていると理解したところで、としやさんが大きな叫び声を出して気絶したらしい。
りゅうさんがトイレの扉を開くと、警備員が待ち構えていて、事務室まで連れて行かれた。「閉所恐怖症で」と嘘をついてどうにか解放されたという。
「なにをばかなことしているのよ。冗談にもほどがあるわよ。ばっかじゃない」
あやねさんが現れて、りゅうさんを叱った。
「もう二度としないでくれよ」
秀介さんが冷静な口調で釘をさした。しばらくとしやさんと会える日が来なかった。
朝一番にりゅうさんの伯父さんから連絡がきた。
「仕送りをしてやっているのに、夏休みくらい店を手伝え」
お叱りの電話だ。りゅうさんが簡単な支度を済ませた。
「ちょっくら行ってくるわ」
りゅうさんが軽い言葉のわりに重い顔を残して地元へ帰った。
「大丈夫かね」と心配したあやねさんたちにトラブルが起きた。
朝は常連客のモーニングセットで慌ただしく働き、お昼のランチセットはお客さんの休憩時間内で食べられるように手際よくしなければならない。稼ぎ時ではあるが時間との戦いでもある。
お昼の二時を過ぎるとやっと落ち着ける時間帯がやってくる。まかない料理を食べ終えて休憩時間も終わる。もう少しで今日が終わる。カウンターへ戻った。半時間後に小太りの年配客が窓側に座った。お客がブレンドコーヒーを注文した。お客のテーブルにブレンドコーヒーを置き、「ごゆっくりどうぞ」とお辞儀をして背を向けたとき、なにか腰に触れた。どきっとしてお客を見た。お客は素知らぬ顔で雑誌を見ていた。勘違いかもと思い直して戻った。ぞくぞくと背中に寒気を感じた。顔が青ざめてゆく。どうしたのだろう。気分が変だ。そっと窓側のお客へ視線を向けた。お客と視線が合い、どきりとして視線を落とす。どうしてにやっと笑ったの。吐き気をもよおすほど胸が気持ち悪い。
一番奥に二人の女性客が座った。かおりさんが注文を取りに行く。カウンターへ戻ると、女性客の隣に座っていた男性客が席を立った。レジに向かって来る。マスターがレジを担当していた。コーヒーカップを引き上げようと立ち去った席へ行く。テーブルを拭いて戻りかけた。年配客の横を通り過ぎようとしたとき、明らかにお尻を触られたことに気づいた。挟まれたような、摘まれたような、掴まれたような、手の感触が伝わってきた。
息を呑むような声がもれる。一瞬で体が強張り動けなくなった。なで上げられるように手の平が動いた。かおりさんが悲鳴をあげた。年配のお客に体を向けたとき、持っていたガラスコップが滑り落ちて割れた。店内の全員がかおりさんへ目を向けた。かおりさんは全身の力が抜けたように、すとんと崩れ落ちた。年配客が怒り出した。ズボンの裾が濡れていた。マスターが駆け寄ろうとしたとき、あやねさんが現れた。
「お前、さっきから何度も人のお尻を触ってるなよ。このエロおやじ」
掴みかかるような勢いでまくし立てた。
「かおりちゃんどうしたの。そんな乱暴な言葉をお客さんに言ってはだめだよ」
両腕を掴まえられてマスターのうしろへ引き込まれた。
「このエロおやじがあたしのお尻を触った」
年配のお客が逆上してマスターに食って掛かる。マスターが平謝りに頭をさげた。
「代金はいりませんから。申し訳ございません」
何度も頭をさげるマスターを見て、あやねさんも罵倒をやめた。
「なんだこの店は」
年配のお客が怒りをまき散らしながら出て行った。
マスターは困惑していた。正直言って喫茶店には不向きなほど、お客さんに笑顔を向けられない。ずっと人見知りが激しい女の子だと思っていた。
「両親がいなくて」と面接のときに説明をされ、少なからず同情もした。それが今、ちんぴらさながらの啖呵を切った。まるで別人のようにも思えた。マスターがレジへ向かい、黒いポシェットからお金を取り出し、封筒へ入れて差し出した。
「かおりちゃん、悪いけど今日で終りにして帰ってくれ。少し多めに入れてあるから」
「あたしが悪いわけじゃない」
あやねさんは必死で言い訳をした。
「うちは客商売だから」
マスターの一言は重かった。言い返す言葉が見つからなかった。
「ありがと」
あやねさんは頭をさげて喫茶店を出た。とぼとぼ歩いて寄り道もせず、まっすぐに帰った。こんなあたしじゃあだめだ。世間では通じない。あやねさんは傷ついていた。
あやねさんは帰って来るなり、僕の背中に抱きついてきた。驚きを隠せない僕は焦ってたどたどしく訊ねた。あやねさんは僕の背中で泣いていた。一時間は泣き続けていた。落ちついた頃、あやねさんは言葉を詰まらせながら今日のことを打ち明けてくれた。
「あやねさんは悪くないです。悪いのはエロおやじの方です」
僕が慰めても、あやねさんは落ち込んでいた。こんなかわいいあやねさんを見たのは初めてだ。でも僕では慰めることができない。
「りゅうさんに電話しようか」と訊いてみたが、「だめ、呆れられる。ばかにされる。怒られる。絶対に言わないで」と否定された。
人が傷ついているときに、そんな酷い人じゃないと思うけど。言葉にはせず、りゅうさんをフォローした。これじゃあ、フォローしたことにはならないか。僕まで落ち込んだ。
秀介さんがバイトから帰って来た。ソファーの見えるところまで入ってくると、「どうした」と僕たちに訊ねた。秀介さんに打ち明けたとき、あやねさんは泣かなかった。涙ひとつ見せずにちゃんと最後まで伝えた。この違いはなんだろう。僕にはわからない。
「あやねは悪くない。間違っていない。被害者はあやねの方だ」
秀介さんがあやねさんの頭に手を置いて慰めた。あやねさんがしおらしい態度でうなずいた。
「しばらく休めよ。僕がバイトしているから大丈夫だから」
「それじゃあ秀介が大変じゃん」
「僕はいいよ。それより、かおりはどう」
あやねさんが思い出したように表情を変えて伝えた。
「今は大丈夫」
「そう。ならよかった」
「うん。よかった。大丈夫」
元気がない。さっきとは違う。なぜか違和感を覚えた。僕にはそう感じた。
「あっ、それからな、恭介。お父さんに電話したか」
今度は僕にお鉢が回ってきた。僕は首をふる。
「お父さん、心配していたぞ。ちゃんと電話くらいしろよ。それから夏休みも、もう終りだろ。学校が始まる前には家へ帰れよな」
忘れていたことを思い出した。逃げていたわけじゃないけど、このままずっとここにいたい。そんなことは無理か。僕は落ち込んだ。
弱り目に祟り目とでも言うのか、泣き面に蜂とでも言えばいいのか、秀介さんに注意されることが続き、叱られることが増える。秀介さんが父のような存在に思えてきた。そういえば第一印象から与えたイメージは悪かった。口には出さなかったけれど、ここから先は僕たちの世界だから入ってくるなと鉄線を張り巡らしたような。僕とは混じるどころか交差することさえ許されないような。遮断されたうえに一定の距離を保たれている気がした。
りゅうさんの部屋にあった小説を手にして、僕はソファーに寝っ転がって読んでいた。直木賞を受賞した作品だ。残り六十頁で読み終わる。秀介さんが帰って来た。
「おかえりなさい」と読書を続けながらの姿勢も悪かった。
「お前、なにをしている」
冷めた声にびっくりして秀介さんを見た。僕が手にしている小説に指を差していた。
「これはりゅうさんが読んでもいいって言ってくれたから」
緊張して本を閉じた。秀介さんの目が怒っていた。
「それはとしやの本だろ。としやの了解は得たのか」
「いえ、それは」口籠ってうまくしゃべれない。
「としやは物の位置が変わるだけでパニックに陥ることもある。そんなことを知りもしないで、勝手なことをするな」
直立不動になって謝った。急いでりゅうさんの部屋へ入り、本を書棚へ戻した。部屋を出ると、秀介さんは自分の部屋に入ったまま出て来なかった。仮住まいの居心地悪さを改めて感じた。
ここでは、お前は部外者だと。明確な境界線が僕の周りを取り囲む。区切られた場所に一歩でも踏み込んではいけない。一瞬のうちに足下に深い溝が現れた。外堀から眺める城が彼らの居住地であり、身近に見えていても近づいてはいけない。友達でもなく、仲間でもなく、家族でもない。望まれない居候。僕は他人なのだと思い知らされた日だ。目の前が暗くなり、闇が大きな口を開いていた。心の深淵は埋められない。
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