「クロスロードの靴」 8

1/1
前へ
/77ページ
次へ

「クロスロードの靴」 8

 翌日、二作目となる風景を描いた。かおりさんとあやねさんにほめられた。素直にうれしい。これ、いいかも。もっといろんなものを描いてみたいと思うようになった。 「条件付きだけど、としやさんもほめていたから。絵を描くこと、本当にいいと思うよ」  かおりさんのほめ言葉は信じられる。自信もつく。描いた絵をずっと見ていた。    電話がかかってきた。あやねさんが受話器を取る。りゅうさんからだ。受話器を受け取る。懐かしい声だ。もうすぐ帰って来るとのこと。待ちかねたことだ。電話を切るとすぐに電話が鳴った。 「りゅうったら、一回で言えばいいのに」  あやねさんが面倒臭そうに言った。僕が電話に出た。聞いたことのない声だ。見知らぬ男。僕の言葉遣いが妙に硬くなっていた。僕からは話しかけず、相手の問いかけに短い言葉で受け答えをした。あやねさんに相手の名前を伝えた。 「神崎さんって言う人から電話だけど」  あやねさんの動きが止まった。怒っているような、気分を害したような、重い溜息をついて受話器を手にした。僕はあやねさんから目がはなせなかった。返答だけの会話を聞いても内容はわからない。乱暴に受話器を置いた。唇を噛み締めて青銅のように固まったまま立っている。心配の言葉すらかけられない。見ている相手も緊張させる雰囲気が漂っていた。こんなあやねさんの姿を見たのは初めてだ。沈黙の壁を挟み、静かに呼吸を止める。あやねさんが瞬きをして、凍った空間に僕の存在を認めた。  「どうかしたのですか」としか訊ねられない。  あやねさんが短い母音を残し、テーブルの椅子へ座る。ゆっくり、ゆっくり、単語を区切りながら語り出すあやねさん。僕は一言一言にうなずく。  伯母さんが亡くなったらしい。明日がお通夜で、明後日がお葬式だという。  でも、どうしてここの連絡先がわかったのだろうか。  秀介さんのお父さんに連絡先を教えてもらったという。 「どうしていまさら」 「どうしよう」 「いやだな」  両手に額をのせ、不安、困惑、嫌悪の言葉を区切りながらもらした。あやねさんはテーブルに顔を向けたまま僕を見ようともしない。僕は声をかけられない。  あやねさんとかおりさんの話では、伯父さんの家が嫌いで、家出のように飛び出したと聞いている。普通の親戚関係と違うのはりゅうさんと同じだ。 「なあ恭介、普通ってなんだ。普通じゃないっていうのはどういう意味だ」と自分に問う。  人間関係がうまくいってないことをいうのか。問題事ならどんな家庭だって抱えている。  人格が禍しているのか。それならば秀介さんはちゃんとできているじゃないか。  第三者だからうまくいかないのか。でも僕は彼らが好きだ。みんなが好きだ。  自分の想像力では思考力がなさすぎて、自問自答が狭い了見しか導き出せない。これでは真意に近づけない。同じ生活空間や生活形を生きてこなかった僕には計り知れないものがある。事情がわからない僕は、軽はずみに声をかけてはいけない。  たったひとりの介入がこの部屋を不安に陥れている。  小さな石が靴の中に入り、ちくちくして履き心地が悪くなった感覚だ。誰もがすぐに履き直してすっきりしたいと考えるけど、何度も簡単に引越しをするわけにはいかない。気になるが小石を取り除けない。そんな想像をしてしまった。  彼らの部屋に多様な意味で翳りがさしていく。  今日ほど秀介さんに早く帰って来て欲しいと望んだことはない。    十八時前に電話が鳴り響いた。あやねさんの体がびくっと反応する。音がいつもより一際大きく聞こえてくる。椅子から立ち上がり、僕が電話に出ようとした。 「でないで」  瞬時に体の動きが止まった。首から上だけがうしろを向いている。あやねさんは僕を見ていなかった。さっきと同じ姿勢でじっとしている。数回の呼び出しで電話が切れた。僕はそばに近づくこともできず、離れることもできず、テーブルを挟んで椅子に座った。  十分が経過し、玄関から誰かが入って来た。秀介さんだ。とりあえずほっとした。 「駅から電話をしたのに誰も出ないから。なにかあったのか」  秀介さんが焦っていた。やっとあやねさんが顔を上げた。 「秀介、あいつから電話がきた」 「あいつって、まさか、どうしてここが」 「秀介のお父さんから聞いたって」 「そこまでするとは考えていなかった。僕に注意が足らなかった。くそ。父に口止めをすればよかった。迂闊なことをした。ごめん、あやね」  あやねさんが秀介さんに電話の内容を詳しく伝えていた。僕はそっとソファーへ移動した。 「連絡を取り合っていないのに捜し出すとは。あやね、行くことはない。無視しろよ。電話番号も変えよう。まだ住所までは知られていないはずだ」 「秀介、明日行って、ちゃんと縁を切ってくる。そうすれば安心して暮らせる」 「二人のことが心配なんだ。伯父さんと会えば、また不安定になってしまうかもしれない」 「大丈夫。今は秀介やりゅうやとしやもいるじゃない。それに一日か二日だけがまんをすればいいことだから」  あやねさんが引きつった作り笑いを浮かべた。秀介さんは戸惑いの笑みを返した。僕はりゅうさんに早く帰って来てと願っていた。    あやねさんがお昼前に支度を始めた。秀介さんはアルバイトへ行く時間を遅らせて、一緒に駅まで見送った。秀介さんが公衆電話からりゅうさんに連絡をした。何度も頭をさげていた。 「頼んだぞ」  秀介さんの表情が明るくなっていたけど、僕は心配した顔を向けた。 「大丈夫だよ。りゅうが地元に帰っていて助かった。あやねとかおりのことはりゅうがちゃんと守ってくれるから安心しろ」    次の日、十九時過ぎにあやねさんが帰って来た。 「秀介、サンキュー」、「ああ、りゅうのこと」、「おかげで気が紛れた」、「そう、ならよかった」、「りゅうにもお礼を言ったから」、「りゅうがタイミングよく帰っていたからよかったよ」  短い言葉でやり取りが交された。  あやねさんがお通夜とお葬式のことを話してくれた。  身内は伯母さん方の兄妹を含め、十人足らずで少なかったらしい。 御通夜が十九時に始まって、半時間後には近所の人も焼香を済ませて帰ったという。伯父さんについては、顔を見るなり、なにも言わずに出て行ったことを非難されたそうだ。  身内だけになると、「二階で寝ろ」と伯父さんに言われたけど、「線香を絶やせない」と言って、二階へは上がらないようにした。りゅうさんが二十一時過ぎに現れて、朝まで一緒にいてくれたそうだ。親類から白い目で見られて、居心地も悪く、早速男を連れ込んでと罵りに近い言葉を浴びせられた。りゅうさんが気を利かせて、「俺、帰った方が」と言いかけたが、「いまさら何を言われようとかまわない。それよりもそばにいてくれる方が安心できるから」とあやねさんが頼んだ。りゅうさんが朝まで一緒にいてくれたという。  秀介さんがやっと笑顔を見せた。僕も安堵した。  悪いことはなにもなかったようにあやねさんとかおりさんが話してくれたけど、帰って来てからの数日間、かおりさんは少し不安定になっていた。現れる回数も減った。  僕は八月三十日に家へ帰ろうとを決めた。  あやねさんとかおりさんに伝えると、「寂しくなるね」と名残顔で言ってくれた。秀介さんは、「そうか」と一言だけの返答だ。ちょっとだけ物足りなさを感じた。 「明日、りゅうが帰って来るから」  その伝達が一番うれしかった。明日が待ち遠しい。
/77ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加