「クロスロードの靴」 9

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「クロスロードの靴」 9

 翌日、真っ黒に日焼けしたりゅうさんが帰って来た。 「ただでこき使われた。アルバイト代くらい出せよな」  伯父さんに対する不満をもらした。でも、この部屋に明るさが取り戻された。  やっぱり、りゅうさんはみんなのムードメーカーだ。  帰省の日、かおりさんが朝食を作ってくれた。トースト、スクランブルエッグ、ウインナー炒め、サラダと豪華版だ。朝食を終えて、帰り支度をした。順番に言葉を交した。 「またね」とかおりさんとあやねさんが抱きしめてくれた。 「がんばれ」と秀介さんが言ってくれた。  としやさんとは会えなかった。お礼の伝言を秀介さんに頼んだ。 「お前を拾ってよかったよ」とりゅうさんが笑う。 「犬や猫みたいに」と言い返せば、そばにいたあやねさんと秀介さんが笑った。 「途中まで送ってくるから」  りゅうさんと一緒に部屋を出たのが十一時過ぎだ。 「高校が冬休みになれば、いや、いつでも来たくなれば、また来ればいい」  うれしくて涙が出そうになった。 「りゅうさん、ちょっと寄りたいところがあるので、駅まででいいですよ」 「途中まで送るよ。遠慮するな。それと少し名残惜しくてな」 「そう言ってくれると、本当にうれしいです」  新宿駅まで出て、環状線に乗り換えた。目的は予備校のパンフレットが欲しかったからだ。高田馬場駅の近くにある予備校につき合ってもらった。駅までの帰り道、ちょうど十二時を過ぎていたので、「昼飯でも食べようぜ」とりゅうさんが誘ってくれた。路地にあるチェーン店へ入った。食べ終えてお店を出たのが十三時過ぎ。新宿方面の改札口を目指して二人で歩いた。右方向に公園が見えた。 「ブランコとは懐かしい」とりゅうさんが急に走り出した。僕はりゅうさんを追いかけた。別れを惜しんで、ブランコに乗りながら二人で話をした。十五分後に異変を感じた。 「お兄ちゃん、背中を押して」  驚いた。子供のような話し方だ。周りを見回してもりゅうさんしかいなかった。表情が軟らかくなっている。もう一度お願いをされた。僕はブランコを降り、うしろに回って背中を押した。きゃっきゃっと幼い子のように喜んでいる。  もうひとりいたのか。  電車が通ると指を差して喜ぶ。鬼ごっこもする。かくれんぼをお願いされたときはうまく断った。この子から目を離す遊びは避けたい。会話をしていると小学生くらいに思えた。自分のことを、「ぼくね、ぼくね」と表現するので、名前はわからない。心細く不安が取り巻いていた。どう対処していいのかわからない。近くに公衆電話もなく、秀介さんに連絡が取れない。とにかく幼い子を泣かさないように、幼い子から目を離さないように、幼い子が機嫌良くいてくれるようにを心がけた。  りゅうさんやとしやさんのことについて訊ねてみた。りゅうさんの風貌について教えてくれたけど、それ以上のことは返事がなかった。また心細くなった。困惑する。  男の子と公園で二時間ほど遊んだ。  りゅうさんが戻ってくれたときは泣きそうになった。どう説明していいのかわからない。なにも言葉が思い浮かばない。僕は混乱していた。無言でりゅうさんのうしろをついて行き、新宿駅まで戻った。 「大丈夫」と駅のホームでりゅうさんに訊ねた。「なにが」とりゅうさんが聞き返した。「いえ、あの、マンションの近くまで一緒に」と言いかけると、「お前を見送りに来たのに」と当然のように断られた。僕は中央線に乗った。結局、東京駅を出たのが十七時過ぎになった。  ブランコがあったからといって、男の子がどうして現れたのか、僕には原因がわからなかった。ずっと気になっていた。    公園での出来事があって、家に着くのが遅くなった。 「午前中に家を出ましたと奥田さんから連絡があったのに、どこをほっつき歩いていた。こんなに遅くなると心配するだろ」  開口一番、父の小言を聞かされることになった。不機嫌な父の顔を見ながら予備校のパンフレットを手渡した。 「それなりに進路も考えるようになったか」  父の顔が少しほころんだ。僕は進路について思うことを伝えた。 「僕は美術関係の大学へ行きたい」  父に猛反対をされた。僕の意志は折れなかった。平行線の議論は父との葛藤を生んだ。  その晩、無事に帰省したことを電話で伝えた。りゅうさん、秀介さん、あやねさんは変わらない感じで話してくれた。秀介さんには公園のことを伝えることができなかった。どんな風に伝えればいいのか思いつかない。しかし、ずっと心の中に留めておくには荷が重すぎる。困惑する。もやもやした気分が残った。    始業式の日、遅いスタートかもしれないが美術部顧問の吉野先生に頼み込んで、どうにか入部は許された。これで新しいスタートを切ることができた。僕にとってはいいことだ。しかし、男の子のことがずっと気になって頭から離れなかった。  月に一度、彼らと連絡を取っていた。冬休みは部活が忙しくて彼らと会うことができなかった。春休みになったら彼らともう一度会うことに決めた。    平成六年三月二十六日、僕は再び東京へ向かった。  今回は親の了承も得ていた。もちろん彼らにも連絡済みで、ちゃんと許可を得ている。順序立てた行動だ。心は軽い。負い目になることはひとつもない。再会にふさわしい状況だ。ひと駅、ひと駅、近づくにつれ、心が躍る。  新宿駅から事前に電話を入れた。りゅうさんの声が届く。同じ東京にいる分、なんだか身近に聞こえた。駅まで迎えに来てくれるらしい。新宿駅発の時間を伝えた。  駅の改札口を出ると、りゅうさんとあやねさんが手をふって出迎えてくれた。簡単なあいさつをして、秀介さんのことを訊ねると、アルバイトに行っているらしい。少し残念な気持ちになった。 「恭介、鞄を持ってやるよ」  りゅうさんが僕の腕から鞄を手に取って肩にかける。 「いいですよそんな」と手に取ろうとした。 「お客さんなのに遠慮しないの」  あやねさんの気遣いに少なからずショックを受けた。家族的な存在だと勝手に思い込んでいた僕の位置づけが、突然、吊り橋が足下に張り巡らされたかと思うと、吊り橋が切り離されて谷底へ落ちていく。これ以上対岸に近づいてはいけないぎりぎりの場所に立っている気がした。 「今日は恭介の好きなものを作ってあげるからね」 「かおりが作るのによく言うぜ」 「それを言わないの。じゃあ料理の監視役。現場監督でもいい」 「ただ見ているだけだから、門番」 「それはたとえが違うでしょ。それ以上変なこと言うと怒るよ」  謝るりゅうさんを見て笑った。二人が僕に視線を合わせて笑った。  これだ。この関係が好きだ。  買い物を済ませ、部屋に着く。父から預かってきた封筒をりゅうさんに手渡した。 「わがままな息子ですが、よろしくお願いします。」  と便箋に書いた手紙と五万円が同封されていた。 「こんなに気を遣わなくていいのに」  りゅうさんとかおりさんがお礼を言ってくれた。  テレビの横に大きな貯金箱が置かれていた。りゅうさんが封筒からお金を取り出して貯金箱へ入れた。なにかあったときの貯金かも。目的は話してくれなかったけど、ある計画を立てて今の生活をしているらしい。  夕食はかおりさんがハンバーグを作ってくれた。  十九時頃、秀介さんがスーパーの買い物袋を手に持ち帰宅した。 「なんだ、もう夕食ができているのか」 「なにか買ってきてくれたの。ありがとう」  かおりさんが買い物袋を受け取り、商品を取り出す。フライドチキン、コロッケ、温泉卵、コーラ飲料がテーブルに並べられた。 「ばらばらね。でも、これって恭介君の好きなものばかり」  本当にそうだ。秀介さんは僕の好きなものを覚えていてくれた。うれしかった。素直にうれしかった。やっとみんなに歓迎された気分になった。 「秀介もやるときはやるなあ」 「いつもだろ」  りゅうさんと秀介さんが握手をする。かおりさんが手を叩く。みんなに感謝した。  僕は自分が一学年分、大人になっていると思っていた。少なくとも自分の目指す道を見つけ、歩み出した分、僕は大人になったと。しかし、彼らを見ていると、初めて出会った日から過ぎた月日は同じなのに、彼らとは成長の度合いが違った。僕には彼らが去年よりも年齢差のある大人に見えていた。
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