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契約と条件
男がその煙草屋を最初に訪れたのは、仕事のためでした。男は灰色の鞄から書類と電卓を取り出すと、店番の若い女の子を前に、いつものように口上を述べ始めます。
「――店番をする時間、31,536,000秒。朝の散歩時間、1,971,000秒。ミスター・ラウロへの手紙を書く時間3,942,000秒……。あなたはこれだけの時間を無駄にしているのですよ、キエザさん。勿体ないとは思いませんか?」
「そりゃあ、勿体ないわね」
「そこであなたの力になれるのが、我々『時間貯蓄銀行』です。あなたが無駄にするはずだった時間を削減し、効率化しましょう。そして、余った時間を将来のために貯蓄するのです」
男は灰色の頬をにやりと歪めて言葉を続けます。
「たとえば店番の間にお客さんと雑談する時間を削りましょう。接客は一人あたり3分で十分です。朝の散歩は駅前広場までに距離を減らして、ミスター・ラウロへの手紙は――」
「それは駄目、絶対に削らないから」
「どうしてでしょうか?」
キエザは呆れ顔で溜息をつきました。
「これだから、銀行員は。お金の勘定にしか興味がないのかしら?」
「一点だけ訂正いただきたい。我々がするのは『時間』の勘定です」
「そうね、なら訂正するわ。あなたたちって本当に『時間』にしか興味がないのね」
キエザの皮肉は男には伝わらず、彼はまるでそれを誇るべきことのように頷きました。
「ええ。『時間貯蓄銀行』の仕事は我々が存在するために無くてはならないものですからね」
「でも、残念ながら女心も分からないエージェントさんと契約はできないわね。もう少しばかり勉強してきたらどうかしら?」
「我々の仕事は、そのようなものとは対極にあるものです。女心など、時間の無駄の極致ではありませんか」
キエザは男の言葉を聞いて深く息を吐きました。
「エージェントさん、あなたねぇ……そうだ、あなたの名前は?」
「BLW/553/Cです」
「BLW……長ったらしいわね。”ブルー”でいいか」
キエザはBLW/553/Cをじろりと睨んで言いました。
「ブルーさんねぇ、”一人でもあんたのことを好きでいてくれる人はいるの?” 寂しい人生よ、それって」
「寂しくて何か困ることがありますか? 人生で大切なことは、”成功””出世””名声”……。そのためには多少の出費は致し方ないでしょう」
「折れないわね、あなたも。……負けたわ。ラウロさんへの手紙は抜きにしても、少しくらいなら”預金”してあげる。接客は”一人3分”だっけ?」
「ええ。そうして節約した時間は我々の方で自動的に回収いたします」
それはBLW/553/Cにとってはいつも通りの「契約」。しかし、キエザは一つだけ条件をつけました。
「その代わり、あなたは毎日ここに寄って煙草を買うこと。お姉さんが少しばかり女心をレクチャーしたげるわ」
灰色の男は――BLW/553/Cは、その言葉に、普段は絶対に見せないような、きょとんとした顔をしました。
「……は?」
「嫌なら契約の話はなしね?」
煙草屋の娘から出された、”奇妙”な要求。
――そうしてこの習慣が、始まったのでした。
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