119人が本棚に入れています
本棚に追加
4
午後19時を過ぎて、ショールームの自動ドアを閉める。あとは営業はおのおのデスクワークをして、店長へ報告すれば帰宅だ。今日は雨が強く降っていたので営業スタッフたちは大人しく事務所でデスクワークをしていた。
「店長、捺印をお願いします」
営業スタッフの山崎が、佐田の机の前に来て書類を差し出した。佐田は中身をチェックする。すると、山崎がソワソワ、体が動いていることに気付いた。
(…?)
佐田が捺印する間も、何度も時計を見ている。何か用事でもあるのだろうかと思った瞬間、ふと昼に聞いた話を思い出した。
事務所で仕出し弁当を食べていたときのこと。彼と他のスタッフが食べながらおしゃべりしていたのだ。そして彼が今夜は遠距離恋愛してる彼女のもとに行くから、早く帰りたい、19時にはでないと、と言っていた。
時計を見ると19時15分だ。
「山崎、お前営業日誌は?」
「あ、今から…、です」
仕事が押してしまったのだろう。これから日誌を書くとなると、三十分以上かかる。捺印をした書類を渡しながら、佐田が山崎にこう言った。
「営業日誌の提出、明日の午前中でいいぞ」
「えっ!」
「どうせ俺が読むだけだ。お客様に迷惑かかるわけでもないし、急ぐような仕事でもない。そのかわり、早めに出せよ」
今までの佐田なら絶対、最後までさせていたしこんな言葉をかけたことはなかった。
山崎はおろか、周りの営業スタッフたちも、佐田の言葉に驚いていた。
「どうした、早く帰りたいんじゃないのか?」
「あ、ありがとうございます!」
山崎は書類を持って自席へと慌てて戻る。
いつもなら出さない仏心。佐田自身、不思議だった。
(気持ちに余裕が出てきたのかな)
翌日。朝の掃除をしていると、山崎が二、三人に囲まれて嬉しそうに笑っていた。佐田に気づいたその中の一人が声を掛ける。
「店長ー!」
山崎をはじめとする数人がかけって、佐田に寄ってきた。仕事以外で話しかけられることがあまりない佐田は驚く。
「昨日、こいつ早く帰ったじゃないですか!遠距離恋愛の彼女に会ったらしいんですけどプロポーズ、成功したんだって!」
「えっ」
佐田が驚いていると、山崎が頭をかきながら話す。
「昨日が彼女の誕生日で…昨日じゃないと意味なくて…、でも店長が早く帰らせてくれたから、昨日中に会えてプロポーズ出来ました!」
しかも昨日は短時間の逢瀬だったらしく、あと一時間ズレていたら逢えなかったという。
「店長のおかげです!ありがとうございました!」山崎が照れながら頭を下げてきたので、佐田は慌てて、頭下げなくてもいいと笑う。
「おめでとう、よかったな!今から頑張らないと」
はなむけのことばを山崎に伝えると、笑顔で山崎がはい!と答えた。周りのスタッフも嬉しそうだ。
たまたま自分の気まぐれでやったことが、こんな結果になるとは。
今回は偶然聞いていたから分かったが、もっとスタッフたちと交流すれば、お互いにいい雰囲気になれるのだろうか。
『気張らなくていいんですよ』
居酒屋で聞いた龍崎の言葉を思い出す。龍崎が話し相手になってくれたから、気持ちに余裕ができたのかもしれない。
今回の件を伝えたら、龍崎は喜んでくれるだろうか。
***
「お疲れっす〜」
整備工場で、帽子を取りながら挨拶する整備士がいた。リフトの近くで作業していた谷村が手を止めて彼の方を向く。
「お疲れ!逢阪じゃん。なに?パシリ?」
「まー、そんなとこ。営業から部品を急ぎで持っていってくれって」
逢阪は他の店舗の整備士だ。用事があってこの店に来たらしい。谷村とは同期でよく話をする。
「谷村んとこも忙しそーだなあ。リコール出たもんな」
「作業多くて参るよなあ」
谷村が自分の肩を回しながらそう話していると…
「いらっしゃいませ!」
店舗に入ってきたお客の車に、ショールームから勢いよく営業が出てきて大きな声で挨拶をした。
「元気いいなー。なんか、さっき事務所行ったときにも思ったんだけど、店の雰囲気変わったな」
「あ、分かる?俺らもそう思ってんだ。前より雰囲気よくて」
「へぇ…?」
「それがさ、店長が何か雰囲気、変わったんだ。ホラ、前は人に仕事押し付けるわ、ネチネチ嫌味言うわ、訳の分からないことで怒るわ、でさあ。どうしようもなかったんだけど」
「散々だな」
「ここ数ヶ月でだんだんそういうのが少なくなってきてさ。しかも最近は、人の仕事手伝ってくれたりするんだぜ。この前なんか、ちょっとした作業があったんだけど、店長がなかなか出来なくてさ。俺が見かねて手伝ってやったら、『お前すごいな』って笑ってたんだ。前だったら、自分でやらずに『これやっておけ』って命令してたはずだからな」
「へー!何があったのかな?」
逢阪が聞くと、谷村はこそっと声を絞りこう言った
「聞いたわけじゃねぇけど、彼女が出来たんじゃないかって、みんな噂してる。何にしてもやりやすくなって、俺らもモチベーション上がったわけよ」
「なるほどな」
逢阪はチラッとショールームにいた佐田を見た。佐田とは何度か話した事がある。物言いが優しかったので優しい店長だな、と思っていたらそれは見かけだけで、評判が悪いんだと他のスタッフから聞いて驚いたことがある。
だか、いまの谷村の話だと、どうやら評判が良くなってきているようだ。見ていると、佐田が営業スタッフに笑いかけていた。
数回しか会ったことはないが、何だか雰囲気が変わっているのが逢阪でも分かった。
彼女が出来た、とみんなが噂する理由も分かる気がする。本当にそうなんだとしたら…
(浅倉に、聞いてみようかな)
佐田が敵対心を持っている浅倉は、この逢坂の「彼」なのだ。
最初のコメントを投稿しよう!