第1話 まさか

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第1話 まさか

一 俺  悪夢にうなされ目を覚ます。辺りはまだ薄暗い。人の気配を感じて横を見ると、元妻が寝ていた。思わず声をあげそうになったがなんとか堪えた。身体を反転させると、そこには…。二日酔いか、割れるように痛い頭で記憶をたどる。  この物語の主人公である俺(前は僕と言っていたが、子供じゃあるまいしと言われ、俺にした。もちろん、仕事の時は私と言っているけどね)は今年32歳になる。名前は山本淳太。二流大学を卒業して、中堅の広告代理店に勤務している。  お世辞にもイケメンとは言えない平凡な顔で、およそ印象に残らないタイプ。背は高からず低からずといったところ。性格は、明るいような暗いような、短気なようでのんびり屋のところもあり、几帳面でずぼら、真面目なようで不真面目と、特徴があるんだかないんだかはっきりしない。強いていいところを一つあげるとすれば、色白でもち肌というところだけど、それは男としてはどうだか。それに、夏など日焼けをすると黒くなる前に赤く腫れてしまい、長所と言えるかどうかわからない。  こんな男がモテるはずがないと思われるかもしれないけれど、ところがどっこい、なぜか女性にはモテモテなのだ。ただ、本人ですらその理由がはっきりわからない。一見、どう見てもモテそうに見えないので、実はモテモテでもその実態を知られることがないのはメリット。  しかも、女性にモテるのは産まれつきのようで、近所のおばさん、お姉さんに始まり、学校にあがると同級生や上級生に広がった。もちろん、大人になってからもそれは続き、結婚するまでかなり多くの女性と付き合ってきた。しかも、すべて女性のほうから付き合ってくれと言われて付き合っている。というわけで、いわゆる逆ナンだけしか経験がない人生なのだ。  再婚した今の妻も同様で、妻のほうから熱烈にアプローチされて結婚した。そして、この妻が世間の男どもがみんな羨む癒し系美人(石田ゆり子と田中みなみを足して割ったような顔)なのだから幸せ者である。妻の名は杏樹。ちなみに、旧姓は鈴木だから、鈴木杏樹だった。深い意味はないけれど。妻は今年27歳になるがどう見ても23、4歳にしか見えない(たいして違わないか)。  再婚して2年になるけれど、今でも「じゅんちゃん」「あんちゃん」と呼び合うほどラブラブだ。   二 まさかの再会  再婚するに当たり、都内の新築マンションを購入した。そのほぼ全額を妻の父親が出してくれた。3LDKだけど、今の二人住まいにはちょうどいい広さで満足している。 「じゃあ、行ってくるね」  妻から鞄を受け取り、毎朝恒例のお出かけのキスをして部屋を出る。隣室は今日もしんとしている。およそ2カ月ほど前に住人が引っ越したからだ。隣が空室なのは防犯上好ましいことではないし、なんとなく不安だと妻は常々言っている。 「ねえ、じゅんちゃん」 「ん? 何?」  帰宅後、テレビを見ながら仕事のことを考えていたら妻に話しかけられた。 「605号室の山田さんの奥さんから聞いたんだけど、お隣、ようやく新しい購入者が決まったらしいわよ」  自分は会ったことがないけれど、妻は605号室の山田冴子さんとは仲がいいらしい。 「そう。それは良かったじゃないか」 「そうなのよ。今度はどんな人かしらね」  以前の住人は40代の夫婦だったが、気さくでいい人たちだった。自分は夜遅く帰宅することが多いから、それほど気にならないが、どちらかと言えば他人とのコミュニケーションが苦手な妻のためにもいい人であることを期待したい。 「きっといい人だよ」  何の根拠もなかったが、妻を安心させるために言った。 「それならいいけど…」  それから10日後の日曜日の朝、隣室に新しい住人が引っ越してきたと妻から知らされた。 「ついにお隣に新しい人が引っ越してきたわよ」 「えっ、そう。いつ?」 「昨日」 「へえー、そうなんだ。で、どんな人だった?」 「引っ越しの最中に偶然通りかかって、ちらっと見たんだけど、私と同じくらいのきれいな女性だったわよ。その人一人なのかはわからないけど」  きれいな女性というところで反応しそうだったが、かろうじて堪えられた。 「ふ~ん。そうなんだ」  その日、淳太は休日出勤があったので、朝食をとって出かける準備をしていた。 「じゅんちゃん、今日は何時ごろ帰って来られるの?」 「う~ん、今日は夕方までには帰って来られると思うよ」 「わかった。じゃあ、夕飯用意しておくわね」 「うん」  しかし、案外仕事がはかどり、午後3時には帰宅できた。 「早かったのね」  妻の笑顔に迎えられる。自分はこの笑顔が好きでこの人と結婚したと、改めて思う。 「予定よりはかどってさ。誰もいないオフィスって集中できるのかもね」 「ああ、それはあるかもね。ちょうど3時だから、何か甘いものでも食べる?」  私たち夫婦は揃って甘いものが好きである。 「賛成。で、何があるの?」 「昨日買ってきたパティスリーリョーコのいちごのタルトがあるわよ」  パティスリーリョーコは泉岳寺にある有名ケーキ店の一つだ。 「いいね。食べよう、食べよう」 「じゃあ、今持ってくるからソファーで待ってて」  そう言って妻がキッチンに向かおうとした時、部屋のチャイムが鳴った。妻がモニターで相手と何かしゃべっている。話し終わってこちらを向いた。 「お隣さん。引っ越しの挨拶だって」 「そう」  妻からきれいな人と聞かされてはいたが、所詮お隣さんなので、さしたる興味はなかった。 「じゅんちゃん、一緒に来てよ」  あまり社交的ではない妻は、初対面の人が苦手なのだ。 「ええー」 「お願い」  手を合わせ、おねだりポーズをされては邪見になどできない。 「わかった、わかった」  妻について玄関まで行く。 「少々お待ちください」  外にいる人に妻が声をかけた後、ドアを開けると、一人の女性が立っていた。彼女が私を見て、私が彼女を見た。 「あっ」  二人ほぼ同時に声をあげていた。驚いたことに、そこに立っていた女性は自分のよく知った人物だった。 「えっ」  妻が二人の顔を交互に見ている。 「もしかして、知り合い?」 「うん」  とりあえず私はそう言った。 「私の、元夫です」  元妻の麗奈が今妻の杏樹に向かって淡々と言った。 「ええー」  今妻の杏樹が腰から砕けた。 三 元妻と俺 「どういうこと?」  ソフアーに座っている俺の前に仁王立ちになって腰に手を回している今妻の杏樹。3時のおやつの予定だったが、それどころではなくなってしまった。 「そんなの知らないよ。俺だってびっくりしてるんだから」 「もおー。なんか、やだ」 「だけど、あっちも驚いただろうなあ」  俺はなんかおかしくなって、思わず笑いながら言ってしまった。 「何、笑ってんのよ」 「だってさあ、まさか元妻が隣に引っ越してくるなんて思わないじゃないか」  話していて、またおかしくなった。 「ちょっとお、笑い事じゃないんだけど。あの人独り住まいだって言ってたわよね。へんじゃない」  お隣も同じ間取りだから、3LDKだ。確かに一人で住むには広すぎる。 「それはそうかもしれないけど、それは本人の勝手でしょう」 「カラスの勝手でしょう、みたいな言い方しないでよ」 「たまたまそうなっただけじゃないか。いずれにしたって、こちらが文句を言う筋合いのものじゃないしさあ」  しかし、妻には私の言葉など耳に入らないようで、 「あの人、じゅんちゃんがここに住んでいるのを調べて隣の部屋を買ったんじゃないの?」 「なんでそんなことするんだよ」 「そんなの、私の口から言えるわけないじゃない」  妻が何を想像しているのかがわかって呆れてしまった。 「おかしな想像するのはやめなよ。そんなこと絶対ないから。麗奈ちゃんに限って」  思わず元妻のことを当時のままに『麗奈ちゃん』と言ってしまった。すぐに気づいたが後の祭りだった。 「え、何? 今麗奈ちゃって言ったよね」 「まあ…」  今更否定もできない。 「もおー、さいてい」  そう言って妻はくるりと背を向け、自分の部屋へと消えた。麗奈ちゃんと言ってしまったことは確かに自分が悪いとは思うけど、元妻が引っ越してきたことは自分の責任でもないのに、なんだって自分が責められなければならないのか、そこんところは納得できない。とはいえ、どうすれば妻の怒りを鎮めることができるのだろうか。何せ、杏樹と再婚してからこれまで一度も喧嘩したことがないので、妻の扱い方がまだわからないのだ。  とりあえず、妻の部屋のドア付近に行って見ると、中から妻のすすり泣く声が聞こえてきた。  ーマジかよー  何も泣くことはないと思うけど、すぐに自分にはそんなことを言う資格がないと気づく。 「あのさあ、あんちゃん。さっきは俺が無神経なこと言ってしまってごめん」  当然だが返事はない。だが、それは想定のうちだったので、元妻がもう自分には関心がないということを伝えて安心させようと試みる。 「それからさあ、元妻と俺って、最後、うんざりするほど揉めに揉めて別れたから、きっと俺の顔を見るのも嫌だと思うよ」  一瞬、妻のすすり泣きが止まったみたいだから、聞いてはいるのだ。本当のところは、元妻とは淡々とした話し合いをして、お互い納得して別れたので、再会してもさっぱりした感情しか湧かないのだけど…。  妻からの返事はなかった。やむなくリビングに戻り、時計を見るとすでに5時を過ぎていた。普段なら妻が夕飯の準備をしている時刻だが、今日の妻にそんな気配はない。もう少しだけ様子を見て、妻がこのまま部屋から出て来ないようだったら、コンビニへ行って弁当でも買って来よう。  6時半になっても、妻の部屋からは物音一つしない。ひょっとして眠ってしまったのかもしれない。ということで、出かける準備をして、再び妻の部屋のドアの前に立ち、中に声をかける。 「あのさあ、これから俺コンビニに行って二人分の弁当を買ってくるから。それで一つはあんちゃんの部屋の前に置いとくから食べてね」  相変わらず返事はないが、がさがさという音が聞こえる。どうやら、こちらの言葉は伝わっているようだった。  翌朝、リビングに行くと、キッチンで朝食の支度をしている妻の後ろ姿が目に入った。ひょっとして機嫌が直ったのかと、妻の背に声をかけて見る。 「おはよう」  いつもだったらこちらを振り返ってくれるはずだけど、今日は背中を見せたまま低いテンションで言った。 「おはようございます」  残念ながら、まだ怒っているようだ。しかも、敬語を使ったということは重症だ。 「昨日はごめんね」  自分が悪いとは思っていなかったが、妻の機嫌をとるために、とりあえず言った。 「いえ」  短い言葉で、しかも強めに言った。しょうがなく、ダイニングテーブルのいつも自分が座る席で待っていると、二人分の料理を運んできた。 「どうぞ」  にこりともせずに言われ、私は無言で食べ始める。妻の様子を見ると、妻は箸に手をつけず、ただ黙って座っている。 「あんちゃんは食べないの?」 「私は杏樹と言います」  昨日の自分の発言がよほど気に食わないらしい。 「そうですね。失礼しました。杏樹さんは食べないのですか?」 「後でいただきます」 「ふ~ん」  完全に戦闘モードに入っているらしい。 「ああ、そうですか」 四 元妻と俺  今妻との喧嘩状態は何日も続き、私はうんざりしていた。本当は自分は悪くないと思いながらも、どうにか早く元に戻りたい一心で、その後もとにかく謝って見るが、妻が頑なになっていて埒が明かない。  今回、妻と初めて喧嘩らしい喧嘩をしたが、妻がこれほど頑固だったことに驚いている。 解決策も見つからぬまま日にちが過ぎ、途方に暮れていた時に一本の電話が入った。まさかの、あの人からの。そう言えば、電話帖の登録を消していなかったっけ。 「はい」 「もしもし、淳太?」 「そう」 「あのさあ、お宅の奥さんに迷惑してんだけど」  もちろん、元妻の麗奈からの電話だ。 「迷惑? どんな?」 「私、今会社だし。電話で長々話してるわけにはいかないから会わない?」 「それはいいけどさあ…」 「いいけど、何よ。ひょっとして、あの奥さんが怖いわけ」 「そんなことはないよ」 「だったら会って詳しく話すから、そっちのほうでさっさと解決してほしいのよ、わかる。こちとら忙しいんだから」  相変わらず麗奈は『男らしい』。そこに惚れたんだけど。 「わかったよ。で、いつにする?」 「そんなの、今日の夜に決まってるでしょう。善は急げって言うし、いつまでもグダグダやってる暇はないのよ」  手帳を見る暇さえ与えられず、一方的に決められてしまった。 「ああ、何とかする」  結局、その日の午後8時に渋谷駅にほど近いところにあるビストロのモナトリエという店で会うことになった。この店は以前二人が付き合っていた頃からよく使っていた店だ。お互い良く知っているという理由でここに決まった。  待ち合わせの時間に着くと、すでに麗奈は来ていた。入口に立つ私を見つけて麗奈が手をあげたが、その姿もカッコいい。元妻は女優の菜々緒によく似たきりっとした顔をしている。自分より3つ下だから今年29歳になる。再婚していないようだから、旧姓の堀田麗奈に戻っているはず。 「お待たせ」  以前デートで来た時のことを思い出して、思わずにやけてしまった。 「何よ、にやけた顔して」 「ごめん」  慌てて顔を引き締める。 「とにかく座って」  そう言われ、元妻の横の椅子に座る。こうして並んで座るのは何年ぶりだろうか。さっきからそんなことばかり考えている。そんな私に現実が突き付けられた。 「電話の件だけど」 「うん」 「私、仕事柄、時間が不規則じゃない」  麗奈は出版社で編集の仕事をしている。今頃は副編集長か編集長になっているのではないか。 「うん」 「それに自宅でも仕事をすることもあるし」 「うん」 「さっきから、うんとしか言ってないけど。前からそうだけどね」 「君と話してるとそうなる。で?」  昔のように麗奈ちゃんと言いそうになったが、もしそんなこと言ったら今度は元妻の怒りをかってしまいそうだったので、寸前で『君』に変えた。 「だから、昼間に弁当や飲み物を買うためにコンビニとかに行くわけよ」 「はい」  うんと言いそうになって、『はい』に変えて見た。 「すると、どういうわけか、お宅の奥さんと頻繁に鉢合わせするのよ」 「そういうことってあるよね」 「何、他人事みたいなこと言ってるのよ。私は奥さんが私の後をつけてるんじゃないかと疑ってるぐらいなんだからね」  どうしてこうも女性は猜疑心が強いのだろうか。 「いくらなんでもそれはないなあ」  今妻の行動にはうんざりしているが、かといって悪口を言われるとむかつく。 「なんであなたが断言できるのよ」 「それもそうだけどさあ」  あちらを立てればこちらが立たず。こちらを立てればあちらが立たない。今度は元妻に責められている。 「でね、お宅の奥さんときたら、私が挨拶をしても無視したり、ツンケンしてくるわけ。感じ悪いったりゃありゃしない。いったい私が何をしたって言うのよ」  まさか、麗奈にまでそんなことをしているとは思わなかった。 「そりゃあ、すまない。妻に代わって謝るよ」 「私はあなたに謝ってほしいわけじゃないの。ただ、何とかしてほしいの」 「と言われても、今、俺と妻は絶賛喧嘩中なんだよ」 「絶賛って、ふざけないでよ。どうせまた浮気でもしたんでしょう」 「人聞きの悪いこといわないでくれよ」 「じゃあ、何なのよ」  仕方ないので、一部始終を話す。思わず麗奈ちゃんと言ってしまったことは伏せておいたけど。 「バッカじゃないの。私があなたとよりを戻すなんて、1000%あり得ない」  そこまで否定されると、なんか寂しい。実は麗奈が再び現れた時、私はあくまで心の中でだけど、10%くらいはよりを戻してもいいかなと思ったりしていた。 「そうなんだけどさあ。よりによって君がうちの隣に引っ越してきたものだからさあ」 「私だって、隣にあなたたち夫婦が住んでいるなんて思ってもみなかったもの」 「そうだよな。偶然って恐ろしいね。でも、その偶然をうちの妻は偶然と思ってなくて、想像逞しくしちゃってるんだよね」 「昼メロの見過ぎじゃないの。ごかいもごかい、合わせて10階」 「へんな冗談言ってる場合じゃないと思うけど。俺もほとほと困ってるんだ」 「冗談でも言わなきゃやってられないわよ。しかし、お宅の奥さん大丈夫?」 「妻を悪く言わないでくれよ。彼女純粋なんだよ」 「純粋? じゃなくて、単純って言うんじゃない。でも、これ決して悪口じゃないから」 「ええー、悪口だと思うけどなあ」 「事実を言ったまで」  相変わらずきつい。そのきつさが好きだった。ということは、俺ってもしかしたらM? 「でも、二人してどうかしてるよ。彼女が勝手に誤解してるんだったら、私が直接彼女に話そうか?」 「ダメ、ダメ、ダメー」 「どうして」 「余計ややこしくなるから」 「じゃあ、どうするのよ」 「あのさあ、君、今付き合っている人とかいないの?」 「それがどういう関係があるって言うのよ」 「君に付き合っている人がいれば、君の気持ちが俺に向くことはないと妻が思うだろうから」 「女房の妬くほど亭主もてもせずっていう江戸時代の有名な川柳があるの知らないのかしら。私は半年前に2年付き合っていた男と別れたわよ。その時、もう男はこりごりと思った」 「ふ~ん」  こりごりの男の中に自分も入っているのか?。 「でもって、これからは男なんて生き物を当てにするのはやめることにしたわけ。ということで、会社を辞めて女性だけの編集プロダクションを設立したの」 「へえー、独立したんだ」 「そう。そのこともあって、思い切ってあの部屋を買ったのよ。一人で住むには広すぎるけど、うちの会社の子が徹夜で編集作業をする時とかに使えるように部屋を確保しているってわけ。長々話してしまったけど、要するに今付き合っている男はいない」 「誰か頼める人はいないの?」 「サクラを用意しろと?」 「お互いのために」 「嫌よ。さっきから言ってるけど、なんで私が動かなければいけないの」 「あっ、そういえば君、弟さんいたよね」 「いるけど。弟と恋人同士を演じるなんて、気持ち悪くてできない」 「そんなこと言わないで頼むよ。弟さんて君にまったく似てないから大丈夫だと思うし」 「確かに似てないし、ごくまれに二人で並んで歩いていると恋人同士と間違えられるけどね」 「そうでしょう。恋人役にぴったりだよ。うまくいったらお礼するし」 「う~ん、しょうがないなあ。話すだけは話してみるよ」 「お願い、恩にきるよ。今日の食事代は俺がおごるから」 「当たり前よ。もし成功したらこんなものじゃすまないからね」 「はい、わかりました」 五 今妻と父親と俺  今妻との戦闘モードは3日ほど続いたが、さすがに妻も疲れたらしく4日目あたりから落ち着きを取り戻し、普通の会話ができるようになっていた。ただ、暗黙のルールでお互いお隣さん(元妻)のことは話題に出さないようにしていたが。  5日目の日曜日にあたる今日はなぜか機嫌がいい。朝食の前に妻が訊いてくる。 「ねえ、じゅんちゃん。今月の23日の日曜日の午後、何か予定入ってる?」  突然2週間先のことを言われた。頭の中をフル回転させてみるが、確かゴルフなどの予定は入っていなかったと思う。 「大丈夫だと思うよ」 「そう。それじゃあ、その日空けておいてね」 「わかった」  いったい、その日に何があるというのだろう。自分や妻の誕生日でもないし、結婚記念日でもないし…。妻に訊こうと思ったが、何だか藪蛇になりそうで止めておく。  朝食後、私はリビングのソファーで新聞を読みながらリラックスしていた。すると、片付けを終えた妻が私の前に座った。 「お隣さんのことで、いいこと思いついたの」  せっかく平和が訪れているというのに、禁句を出した。 「えっ、何?」  俺の警戒心はマックスに達している。 「パパに相談しようと思うの」 「パパあぁ~」  思わず大きな声が出てしまった。パパだけは勘弁してほしかった。でも、今妻の杏樹がファザコンなのを考えればあり得た選択かもしれない。 「そんなに驚くことないでしょう」 「だってさあ、何もお義父さんに相談するほどのことじゃないよね」  杏樹の父親は、ある大企業の専務で、次期社長候補の筆頭にいる。父親は妻を病気で亡くしていることもあって、娘の杏樹を溺愛していたらしい。私と結婚するまで杏樹が独身だったのは偏にこの父親のせいに違いないと俺は踏んでいる。  そんな杏樹と私が出会ったのは、私が営業の途中で偶然立ち寄った喫茶店に、杏樹が友達と来ていたからだ。その時、杏樹は私を一目見て運命の人だと思ったという。日ごろは父親の言いなりになっていた杏樹だったが、この時ばかりはそうしたことも無視して、私を逆ナンした。杏樹の超積極的なアプローチで付き合うようになり、杏樹のほうから結婚を申し込まれた。しかし、当然ながら父親は大反対だった。無理もない。杏樹が大企業の専務の娘であるのに対して、私は中堅広告代理店の課長代理という普通の、というかどちらかといえば冴えないサラリーマンだったのだから。おまけに、杏樹は初婚だけど、私はバツイチ。そりゃあ、私が父親でも怒る。  でも、杏樹が俺じゃなくちゃダメ、たとえパパが大反対しようと、この人と結婚すると言ってきかなかったらしい。結局、父親もやむなく認めた形だ。ということで、父親は未だに私のことが気に入らない。ということで、私にとって杏樹の父親は大の苦手、鬼門のような存在なのだ。 「何でよ、パパに相談するのが一番じゃない。というか、もう相談しちゃったの」 「ええー、ちょっと待ってよ。参ったなあ。お義父さんに相談する前に俺に相談してよ」  父親に相談するということを事前に私に相談してほしかったと言いたかったのだが、自分でも何を言ってるのかわからなくなった。 「だからもう話しちゃったんだって」 「それはわかっているけどさあ。で、お義父さんは何って?」 「女房の妬くほど亭主もてもせずって言うのよ」 「ああ、それ江戸時代の有名な川柳だって知ってた?」 「ええー、そうなの。じゅんちゃんって物知り」  元妻からの受け売りだけどね。 「でしょう」 「だから、アタシパパに言ってあげたの。そんなことないよ、うちのじゅんちゃんはすんごいモテるんだよって」  なんか、ちょっと嬉しい。でも、ここはモテるって言っちゃいけないところなのにと思う。ただ、父親が大人の対応をしてくれたようで安心する。 「パパはあんまり心配することないって繰り返すから、私教えてあげたの」  ーまさか?ー 「ん? 何?」 「じゅんちゃんがお隣さんのこと、麗奈ちゃんって言ったって」 「あちゃあ」 「だって、事実でしょう」 「そうだけどさあ…」 「そしたら、急にパパが怒り出して、そりゃいかん、ワシが淳太君に会って直接話してやるって。それでさっき23日の予定を訊いたの」 「そういうことか…」  してやられた。ただ、あと2週間ある。この間に元妻と立てた作戦を少しでも早く実行することだ。
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