八田良秋

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 頻繁に聞こえていた衣擦れの音が、やがて止んで静かになる。 「……もう皆寝たのか」  俺、八田(はった) 良秋(よしあき)が声をかけても、誰からも返事はない。どうやら本当に皆寝てしまったらしい。  否、まだ起きているものもいる。    俺が床を小さく叩くと、ホワイトと三月は抱えられている腕から抜け出した。  それを捕まえて、二羽同時に腕の中に閉じ込める。 「こうしていると、昔を思い出すな」  俺とホワイトと三月。  一人と二羽しかいなかった頃を。  頭に無造作に乗せていた、グレーのキャスケットを振り落とす。  この帽子は、俺がヤマネから貰ったものだ。  『代々うさぎ小屋を継ぐ者にはこれを継承しよう』とおちゃらけたことを抜かしていた彼を、先輩でもある幼馴染を、俺は何だかんだ言いつつも小さい頃から尊敬してきた。  そんな俺にとって、彼から引き継いだ帽子や小屋は絶対のものだった。  大事に守るもの。  絶対になくしてはいけないもの。    ヤマネが中学を卒業する頃にはうさぎにも情が湧いていて、うさぎ小屋は俺にとって本当に大切なものになっていた。  しかしそれを共有してくれる者は、誰一人としていなかったのだった。  俺にとっては大切なうさぎ小屋でも、周囲の人々にとってはそうではなくて。存在すら知らなかったと言われることも多くて。  マイナーな存在の定めだと、分かっていたけれど悲しかった。  ホワイトと三月がここにいるのに。  俺も、ここにいるのに、と。  転機は中二の秋。  一人と二羽になってから、半年が過ぎた頃だった。  毎朝世話をしていた俺は、その日珍しく朝寝坊をしたため、放課後の小屋を訪れた。  そして、フンの掃除などをしていた時に、彼女は現れた。  ポニーテールの、快活な笑顔の少女。  彼女は俺を見て驚き、こう問うてきたのだった。 『貴方も、うさぎの世話をしているんですか?』  その科白に、今度は俺が驚く番だった。  小屋は鍵が壊れていたから出入り自由で、誰でもうさぎの世話をできるようになっていた。  でもまさか、うさぎのことを気にかける人が、自分以外にもいたとは思えなくて。  まして、うさぎの世話をする人が、自分以外にもいたなどとは。 『君もうさぎの世話を?』 『はい! 放課後に少しだけ』  笑って答えた彼女のことが気になり、俺は外に出て彼女に並んだ。  彼女は目を丸くして、それからまた笑って。 『それにしても、ホワイトと三月っていうんですね。今まで知らずにお世話してました。不思議の国のアリスみたいですね』 『そう言う君こそ、アリスみたいだ』  冗談めかして返すと、彼女は自身の格好を見て驚いていた。  藍色のプリーツスカートに、彼女自身が選んだ水色のポロシャツ。それに白いエプロン。  彼女は部活の後に脱ぎ忘れていたと笑い、それからいたずらっぽい顔で付け加えたのだった。 『じゃあ、貴方は帽子屋さんですね』  俺が被っていたグレーのキャスケットを指して、例えて。  おどけてみせて、笑い合って。  それは夢の中にいるような、楽しくも不思議な感覚だった。    そして今。 「賑やかに、なったよな」  部活に行くのを忘れていたアリスを探しに来た調理部の部長を、クイーンと呼ぶようになって。  小屋の屋根で寝ていたアリスの級友を、チェシャと呼ぶようになって。  うさぎ小屋は、ますます大切なものになった。  前とは比べ物にならないほど、ずっと。  我儘なのだろうか。  なくしたくない場所を、失わないようにすることは。  そしてそれが我儘になるのは、ここがマイナーな場所だからなのだろうか。 「弱肉強食ってか? ……そうなのかよ」  それが世の理だと知るには、まだ俺は若いと信じたい。  俺はそれ以上は何も言わずに、ゆっくりと目を瞑った。
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