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第3話『三日月のデ・アール』
『パタン』
扉の閉まる音で、クルルはまた目を覚ましました。窓から差し込むまぶしい陽の光が、部屋の中を優しく色付けます。どうやらあかねは仕事へ出かけたようです。
じんわり暖まっていくノートの端っこで、クルルは少しだけ驚いたようすを見せました。といっても、クルルはただの絵ですから、誰も気づかないくらいに、ほんの少しだけ。
しかし、クルルが驚くのも無理のないことでした。なぜなら、これまでクルルはどこかの端っこに描かれては、しばらくすれば消しゴムで消されていたのですから。
(あかねちゃん、どこかへ出かけたのかな)
そんなことを考えながら、クルルは昨夜あかねが言ったことを思い出してしまいました。
『たいくつな絵』
そして少し悲しくなりました。いつも浮かない顔でどこかの端っこに自分を描くあかねを、クルルはずっと応援していたからです。
(たいくつな絵かぁ…それもそうだよね。妖精っていっても、ぼくには不思議な力もないし、ましてや…色もついてないんだもの)
今度こそ泣いてしまうかも、と思いましたが、もちろん涙なんて出やしません。クルルは昨日と同じ姿勢で天井の一点をただ見つめたまま、静かに悲しみが過ぎ去るのを待つことにしました。
すると、どこからともなく声が聞こえてきました。
「そこの坊や!」
「君のことだよ。そこの【色なし】の坊や!」
老紳士を思わせる口調に、低く深みのある声です。突然部屋の中で声がしたことにびっくりしながらも、クルルは声の主を探して部屋の中を見回しました。
「ここだ。我輩はここである!」
机の向かい側、ベッド脇にある、あかねの胸の高さほどのキャビネット。そこにはブリキ缶でできた花柄の貯金箱や、写真立てなどが置かれていましたが、その少し上、壁にかけられた額縁から声がします。そこに〈いた〉のは、片眼鏡をつけ、口ひげをたくわえ、気むずかしそうに眉をひそめる三日月の絵でした。三日月は横顔をこちらに向け、片方の目でクルルを見つめています。
「やあ坊や。ごきげんいかがかな?」
クルルは小さな目をパチクリしながら、三日月を見つめ返しました。
「急に声をかけられた君の驚きも理解はするが、なにか返事のひとつでもしてくれまいか。これでは我輩がトンマみたいではないか」
そう言われてクルルは困りました。なぜなら、絵である自分がなにをどうすればあの三日月のように話すことができるのか、まったくわからなかったからです。三日月はなおもクルルへ話しかけます。
「ああ失礼、挨拶がまだであった。我輩はデ・アール。【端(たん)の三日月】アーシャット・レヴ・デ・アール…で、あーる!」
自己紹介を終えた三日月はそう言ってクルルの返事を待ちましたが、うんともすんとも言わないそのようすを見てようやく気がつきました。
「まさかではあるが、君は誰かと話したことがない。そうなのかな?」
クルルはあいかわらずデ・アールを見つめたまま。心の中では(そうだ)と返事をしました。デ・アールはなにか納得がいったようで、「ふむ」と小さくため息をつきました。
「なるほどなるほど。やはりそうであるか」
デ・アールは口ひげをひくひくと動かして、少し考え込んでから、次はこう言いました。
「では…君の名前がなんであるか。なおさら我輩は教えてもらわねばなるまい」
(だから、どうすればいいのかわからないんだってば!)
クルルはまた心の中でそう答えながら、どうすればそれがうまく伝わるかを考えていました。するとまるでそれを見透かしたかのように、デ・アールは言いました。
「どうすればいいのかわからないのだろう。簡単なことだ。『君の知る君の名前』を、心から我輩に伝えようとすればいい。いいかな?『心から』である」
(心から…?)
不思議に思いながらも、自然とクルルは自分の心へ耳を傾けました。言われたとおり、いつかもらった自分の名前をデ・アールへ伝えるために。
(ぼくの名前…ぼくの名前は…)
「ぼくの名前は…クルル」
「よろしい!」
デ・アールがそう言い終わるのが早いか、クルルに異変が起こりました。ノートに描かれたクルルの体が、その線に沿ってゆっくり膨らんだかと思うと、まるでポップコーンが弾けるように《ぽんっ》と飛び出したのです。色のないままそのままに、真っ白な姿で。
机の上にしりもちをついたクルルはおそるおそる両足で立ち上がりました。絵だったときは手のひらほどの大きさだったクルルは、今や大人のひざの高さほどになりました。
「これっていったい…」
「『名は体を表す』のさ。坊や」
デ・アールは得意げに言いました。
クルルは腕を曲げたり伸ばしたり、靴の履き心地や帽子のかぶり具合を確かめてみました。それはとても不思議な感覚でした。そんなクルルのようすをしばらく眺めてから、デ・アールはふたたび口を開きました。
「どうかな?ノートから飛び出してみた今の感想は」
「うん!なんだか変な感じだけれど、とっても嬉しいよ!」
「大変よろしい」
クルルは両手を広げ、上機嫌にポンチョをパタパタさせています。
「では早速ではあるが、そうやって動けるようになったところでひとつ我輩の頼みを聞いてくれないか」
クルルはパタパタをひと休みして、デ・アールの話に耳を傾けました。
「頼みって?」
「坊や。君は我輩を見てどう思う?」
「えっと…」
クルルはなんと答えればいいのかわからなかったので、思いついたことをそのまま伝えることにしました。
「とっても黄色いね!」
「違う!そういうことではない。もっとこう…あるだろう!」
デ・アールはそういって、わざとらしく口ひげをひくひくと動かし、片眼鏡をかけている方の眉毛も、同じくぴくぴくさせました。
「あ!えっと…とってもおしゃ」
「そうである!我輩はトレビアンな紳士なのである!」
デ・アールの突然の大声に、クルルは床から三センチほど飛び上がりました。そんなクルルのことはお構いなしに、デ・アールは続けます。
「どうだ?我輩のカラダを縁取るこの美しいカーブ!凛々しい眉に、品格漂う口髭…それに上等な眼鏡!そしてそれらがかもしだすエレガントな雰囲気!」
クルルは、デ・アールが自らの容姿をほめちぎるのをだまって聞くことしかできなかったので、ひとまず机の上に腰をおろし、膝を抱え、三角座りをして、しばらく話を聞くことにしました。ひとしきり自分を褒めたあと、そんなクルルのようすに気がついて、ようやく我に返ったデ・アールは、熱っぽい演説を中断し、こほんとひとつ咳払いをしてから、今度は心底、嘆かわしそうに言いました。
「そう。我輩はとても立派な紳士なのである」
「うん。ぼくもそう思うよ」クルルは頷きました。
それを見たデ・アールは、一瞬、喜びの表情を見せましたが、またすぐに眉をひそめ、あらためて同情を誘うように言いました。
「ところがどうだ…『あれ』を見たまえ」
言われるがままクルルが後ろを振り返ると、デ・アールが見つめるその先、反対側の壁のちょうど同じくらいの位置に、月の写真がピンで止められているのが見えました。
「あのお月さまの写真がどうかしたの?」
「どうしたもこうしたもない!わからんのか!?あれは《月》の写真である!」
もしデ・アールに手がついていたなら、きっともの凄い勢いで、握りしめたこぶしを振りまわしていたことでしょう。
「わかっている、あれはただの写真。我輩のように特別なものではない。だが…だがしかしだ坊や!」
(なんだかあやしい雲行きになってきたぞ)
クルルはそう思いながらも、デ・アールの次の言葉を待ちました。
「この部屋に燦然(さんぜん)と輝く月は我輩だけでじゅうぶんなのである!そうだろう?」
「うーん」
「だから坊や、あの写真をはずして欲しいのだ」
「えー!」
クルルは抗議の声をあげました。
今はこうして動き回れるようになったとはいえ、自分だって元々はただの一つの絵でありましたから、写真という違いがあるとはいえ、同じように、静かに、誰にも迷惑をかけることもせず、ただそこにあるだけの写真にたいして、そんなひどいことはしたくありませんでした。
「いやだよそんなの!かわいそうだよ!」
クルルは頰をぷくっと膨らませ、デ・アールに言いました。
「お願いだ坊や…なにも破けとも捨てろとも言ってはおらん。我輩が我輩の誇りと尊厳を取り戻すためには必要なことなのだ。どうか力を貸しておくれ」
クルルはデ・アールに言いました。
「だってさ、この写真だって…もしかするとぼくたちみたいに気持ちがあって、そんなことを言われて悲しんでいるかもしれないよ?」
そううったえかけるクルルに、デ・アールは言いました。
「その心配はない。写真は写真であるからにして、我々のような自我は持ち合わせてはいまいよ。あれは撮るものの心写しであるからな。我々とはまた、『成り立ちが違う』のである」
「じが?こころうつし?」
聞きなれない言葉に、クルルは首をかしげました。
「坊やにはまだ難しかったかな?だが、どうか信じて欲しい。我輩はあれを煮たり焼いたりするつもりはない。そもそもできないわけだが……そう!これはお互いのためなのだ。あれも別の部屋に移ることで、我輩との住み分けができるのである。競合はないに越したことはない。そうだろう?」
「うーん…おじさんの話、むつかしくてよくわかんないや」
そう言って、デ・アールの《お願い》に、まだ少し納得がいかないクルルでしたが、動けるようにしてもらったことに感謝していたので、その願いを叶えるために、今回は力を貸すことにしました。
「わかったよ…写真を外せばいいんだね?」
「ウィ!セ・サ!その通りだ坊や。よろしく頼む」
デ・アールの言葉にクルルは頷きました。そして後ろを振り返り、写真の位置を確かめると、机の上の書棚に足をかけました。
「よいしょ。うんしょ」
クルルは器用に書棚を登りました。全部で三段も登れば、すぐにてっぺんに来ることができました。そして後ろを振り返り、デ・アールが頷くのを確かめると、写真の取り外しにかかりました。
写真は一番上のまん中あたりをピンひとつで止めているのですが、クルルの身長では、背伸びをしてようやく写真の一番下に指が届く程度です。どうにかつかめやしないかと、クルルは書棚の上で跳んだりはねたりしてみました。そんなクルルを、デ・アールは後ろから応援しています。
「よし!そうだ!いいぞ!もう少し、あーっ…惜しい!」
そして、クルルが写真の端っこをようやくつかんで着地すると、そのはずみでピンが抜け、写真を外すことができました。
「よおし!よくやった!」
壁から離れた写真は、クルルにはらりと覆いかぶさります。
「わわっ」
あわてて手を離すと、写真は部屋の中をひらひらと舞って、床へと着地しました。
「ふう」
クルルはほっとひと息ついてから、書棚を今度はゆっくりと降りました。そして、机の上に帰ってくると、デ・アールに言いました。
「これでいい?」
デ・アールは、今やクルルに抱きつかんばかりの勢いで、感謝の言葉を繰り返しました。
「ありがとう坊や!いや…クルル、ほんとうにありがとう!」
自分のしたことで誰かに喜んでもらう。初めての経験に、クルルは恥ずかしそうにあたまをかきました。デ・アールは満足そうに数回うなずくと、クルルにこう言いました。
「クルル、君はまことに素晴らしいことをした!そのはたらきに対して、我輩から褒美をさずけよう」
そして、神さまにお祈りするときのように、目をぎゅっとつむりました。
「むむむう……それ!」
そしてデ・アールがかけ声を発すると、その体からクルルへむかってキラキラした光が降り注ぎました。すると…。
「ふう…これでよし。クルルよ、そこの鏡を見るがよい」
なんだろうとクルルが机の上の鏡をのぞき込むと、そこに映っていたのは、鮮やかな黄色に染まる、くるりとはねたクルルの髪でした。
「わあー!ありがとう、デ・アールさん!」
クルルはたいへん喜んで、しばらく鏡の前を離れませんでした。
「うむ。なんということはない。これで君を【色なし】と呼ばずにすむわけだ」
うきうきと鏡を見ていたクルルでしたが、デ・アールのそのひとことに、はっとしました。
「ねえ、デ・アールさん、これってどうやったの?」
クルルは前髪をつまんで、上目づかいでそれを見ながら、デ・アールにたずねました。
「それは、我輩からの感謝の気持ちである。君はきっと《色》が欲しかったのだろう。我輩は我輩ができる範囲で、それが叶うよう、その気持ちで君の想いを後押ししたのである。」
デ・アールの話はやっぱりクルルにはまだ少し難しく聞こえましたが、なにをすればいいのかはすぐにわかりました。
「じゃあ、ぼくがほかにもいっぱい『ありがとう』って言われるようなことをすれば、もっと色がつくのかな?」
クルルの目は今や輝きに満ちていました。なぜならクルルは心のどこかで、色がない自分に自信が持てず、またそんな自分のせいであかねに色をつけてもらえないのだと考えていたからです。
(それに、体や帽子、全部に色がついたぼくを見たら、あかねちゃんだって元気になるかもしれないぞ。そうなれば、また前みたいに楽しそうに絵を描いてくれる。きっとそうだ!)
そう思うと、だんだんとやる気がみなぎってきました。
「ねえデ・アールさん、ぼく、もっと色が欲しいんだ。どうすればいい?」
急なクルルの問いかけに、デ・アールは目をパチパチ瞬かせましたが、気を取り直して言いました。
「うむ。であれば、我輩はもう感謝の気持ちを渡したわけであるから、ほかにも困っているものを見つけ、助けてやればいいのではないかな?」
「なるほど。困っているひとだね!」
クルルは胸の前でぎゅっと手を握りしめました。そして、完全に色がついた自分と、それを見たときのあかねの喜ぶ姿を想像しました。
「わかった、ぼく、やってみるよ!」
「ははは!いいぞクルル!君はまことに面白い!」
部屋の中に、デ・アールの笑い声が響きました。
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