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窓から、桜の花びらが吹き込んでいた。
あの日も。
いつだって、私達の物語の始まりは、「あの日」と同じ情景からはじまる。
真っ新なブラウスに腕を通した、形だけ真新しい生活で、私達は何も、変わっていなかった。
でも我が家の中心にあるはずの、一番大事なものだけぽっかりいなくなってしまった。
霞さんが、消えた。
正確に言えば、出て行った。
真っ白い封筒一枚だけ置いて、その横に小さな箱も置いて。
四人揃って、ただ呆然と空っぽになったテーブルを見つめていた。
「―—どうしよう、ねぇ」
呑気な溜息混じりの呟き。
私達の手のひらには何にも残っていなかった。むしろ、空っぽすぎて、笑ってしまうくらいに。
きっと、この場に霞さんがいたら、面白可笑しく笑いを堪えたように微笑んでいるだろう。
「―—さぁ、ねぇ」
本当に間の抜けた返事しかできない。情けない。私達は四人揃ってなんにもできない。ちっぽけな、いつまで経っても小さな子供だ。
「―—天たちの、せいだよね」
「天...」
いつも以上に小さく見える彼女の肩は小刻みに震える。
昨日までならその肩を包み込んでくれた霞さんは、もういない。
「天たちが、霞さんを傷つけたから...」
「泣くな」
尖った声。天だけでなく私もびくりと身体を震わせる。
テーブルの上に置かれた封筒に鋭い視線を注ぎ、彗はこちらに顔を向けようとはしなかった。
「だって―—」
嗚咽の向こうに天の叫びは掻き消された。
耳を塞ぎたくなるくらいに、天の嗚咽は悲痛に突き刺さる。
「泣くな、天のせいじゃない」
ほんの少し和らいだ彗の声色。
泣きじゃくる天を落ち着かせるような姿は、初めて見た気がする。
「——彗じゃないみたい...」
ぽつりと降る霧雨のように、私の独り言は家に沈む。
自分にも聞こえていない声なのに、誰かがふっと笑った気配がする。
それは、もしかして、霞さん?
「彗?」
怪訝そうに眉を歪めて、昴は彗を見つめていた。
黙りこくったまま、彗はどこを見ているのかも分からない。
透き通るガラス玉。
ふっと私達に向けられたその瞳は、彗の瞳そのものだ。
あの子の瞳の色は、一度だって変わったことがなかった。
「だって、あの人がそんなことすると思う?」
くるりと艶めく黒い目が、ぐさりと突き刺さる。
その透き通る目に、私はあの日みたいに吸い込まれそうになる。
このまま見つめ続けたら、たぶん私は呼吸困難になる。それはとっくに経験済み。
「―—こんなもの残して」
バン!
突き立てた人差し指が指し示していたのは、テーブルの上の白い箱。
銀色の針のような雨が降り注いだように。
箱の上に織り込まれたような、シルバーの文字がゆらゆら流れる。
「あ」
箱の中に閉じ込められているもの、私達には分かる。
どんな意味がそこにあるのか、私達には分かる。
「待って、これ」
天は彗の手の中を覗き込む。
純白に、窓から降り注ぐ太陽が反射していた。
ふたりの頬に丸くハイライトが浮かび上がっていた。
「なんで、こんな時にまで、こんなもの置いていくのよ...馬鹿なの?」
眉間に深い皺が寄る。
自らその目を塞ぐように、天にその箱を押し付ける。
「す、彗ちゃん?」
びくり。
名前に反応する肩の震えと、うなされる記憶の断片。
苦虫を噛み潰したように、顔を歪める彗は一週間に目にした彼女と、同じだった。
「霞さん...」
「らしいなぁ、こんなもの残して行くなんて」
困ったように眉を下げて、微笑を浮かべた昴の唇が、ほんの一瞬歪む。
「昴、やめてよ、そんな...」
はっと、三人は私の方を振り向く。
ほころぶ唇は、庭で揺れる桜のように淡い。
「ん?」
何が何だかよく分からない私は首を傾げる。
くすりと、昴はいたずらっ子のような笑みをこぼして、
「――独り言じゃないんだね」
どこかで、ここにはいない誰かの笑い声が耳元をかすめていった気がした。
不意に私から飛び出した言葉が、目の前の誰かに向けられる。
それが無意識に、突然飛び出したなんて―—それは見えない力以外の何ものでもない。
きっと、見えない糸に引っ張られている。
私達四人は、あの人の糸に繋がれている、今も。
「―——いるよ」
「え?」
「ここに、いるよ、霞さんは」
そう、言うしかない。
そんな単純な言葉では言い表せないとは、誰もが分かっている。
子供騙しの、哀れな慰めの、涙必至のストーリーの結末に書いてありそうな、そんなありがちな言葉なんて通用しないって分かっている。
「霞さんはどこにも、行ってないよ。だって、ここにいるんだもん、私達には分かるよ、霞さんのこと」
ちょっと曲がって捻くれた、ねじれの位置にいるみたいな私達には、可哀想な言葉にしかなれないけれど。
こういう時に思いつく言葉なんて、ちっぽけだ。
霞さんがここに残したものは、ただの幻想なんかじゃなかった。
虹のように、ほんの一瞬で消えてしまうものなんかでは、なかった。
この四人と、霞さんの間にある記憶は、確かにここにあった、残像として漂い続けている。
色も匂いも手触りも、褪せないで、虹のようにきらめいている。
振り向く。
カーテンが大きく膨らむ。
風をはらませて、太陽の光を纏って。
眩しかった。四人はただ、目を細めて、風を見つめているだけ。
霞さんの幻が見えた―——とか、そういうありがちなことは起こらない。
四人の脳内で、重なり合っているはずだ。それだけで十分。
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