無色の虹

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 初虹(はつにじ) ――《気》立春以降に初めて現れる虹のこと。(春の季語) 褐色に擦り切れたページは、窓から落ちる日差しに透けて、今にもしゅわしゅわ溶けてしまいそうだった。 季節が移り変わるだけ。 そんな当たり前の時間の流れを、古の人はどれほど待ち望んでいたんだろう。 私はそっと、辞書を閉じる。 擦り切れた革の表紙に、手のひらがしっとりと馴染む。 窓の横に足を投げ出して座るこの場所は、誰にも邪魔されない、私の特等席だ。 空間のすべてが、透明な日向のシロップに包まれているみたい。 とろりと崩れてしまいそうな、ささやかな色だけ残している。 ―――春って、ちょっぴり桜色が混ざったシロップでことこと煮たみたいな、透明なコンポートみたいな季節だよね―――。 何言ってるのって、笑い飛ばしていた一年前の自分。 私も、今ならちょっとは分かる。透明なシロップが見える気がする。 「カスミさん」 遥か彼方に、この声は届いているのかな。 透けるまつげの隙間から、小さな光の粒がちらちら舞っている。 眩しい。 でもこれは、“お姉ちゃん”が教えてくれた、本当の春の姿だ。 少なくとも、五人の中では、それが春の姿だ。 だから私は眼を閉じていたくない。 その春は、私達にとっては永遠だから。 窓に映る空の色は、水をたっぷり含んだ水彩絵の具の青色。 一筆撫でただけの、ラフなスケッチのような空の色。 「そら―――!」 窓の向こうを覗き込む。 眼下に広がる庭で、姉と妹たちが手を振っている。 「ピクニックだよ!早くおいでって!」 唇に端がふっと緩む。 私の指先は古びた辞書から離れ、ガラス窓を開け放った。 春の風をはらませたカーテンは私の頬を掠めてゆく。 カスミさんが言っていた通り、この季節の空気のシロップには、ほんの少しだけ草花の香りが加えられているみたいだ。 もう何年前かも忘れてしまった、あの日と同じ景色が巡ってくる。 今年も、門に覆い被さるように、桜の花はそのつぼみを開き始めている。 思い切りその香りを吸い込んで、私は身を乗り出した。 「今行く―――!」
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