01. 計略結婚

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01. 計略結婚

「あの?! なぜ? 私が?」 質素なエプロンドレスを皺がつくほどに強く握りしめたメイド姿のソフィは、派手やかなレースをふんだんに使ったドレス姿のボルストラップ侯爵夫人オクタビアに呼び出されていた。 「もっと喜びなさい。どこの骨ともわからぬお前が侯爵家の娘としてお国の役に立てるのよ」 不満そうな表情を隠しもしない侯爵夫人が座る豪華なカウチより一歩下がったところで、その娘のアレクサンドラがニヤニヤしながら付け加える。 「ガルドゥーン帝国の先王、あら、何ていうのかしら? ふふ、ともかくお目にかかることもできないぐらい、とーっても身分のお高い方よ。大きな後宮をお持ちなんですって、お前の卑しい血筋も気にしなくていいわね。そうそう、その汚らしい髪もね」  ソフィはティルブルグ王国の王都ティルドフの貴族街にあるボルストラップ侯爵家のタウンハウスに引き取られるまで、下町にある古い長屋に働き者の美しい母サラと下働きをしてくれるバーサとそしてこのソフィの三人暮らしをしていた。 一家の大黒柱は母サラであり、午前中は大きな商家のお嬢様に家庭教師として教えに行き、午後はソフィの世話をしていた。そんな時、簡単な文字や計算、時には「レディはね、こんなことをするのよ」と刺繍や音楽、マナーなどを教えていた。そして夕方からは下町の比較的高級な社交場でピアノを弾き、時には歌うことなどで生活費を工面していた。 ソフィが長屋の子供たちに混じって遊べるようになると、色んな遊びや言葉を覚えてきた。そういったもの「あたい」「おめえ」だの「かあちゃん」だのを披露すると大好きなバーサはとても悲しい顔をする。 幼いソフィでも気付けるほど、サラとバーサは長屋に住む人たちと話し方が違う。そしてなぜだか、サラのことを「お嬢様」、ソフィのことを「小さなお嬢様」と呼び、サラのことは「お母様」と言いましょうね、とソフィの言葉を正すのだった。  古く隙間風がよく通る長屋の一室で、三人の夕食は静かに進む。 「バーサいつもありがとう。今日もとても美味しいわ」 「わたしもバーサのスープが大好きよ」 「それはようございました。よくよく噛んでお食べ下さいね」 それはいつも同じ固いパンと野菜の切れ端の入ったスープであったが、この小さな家族は少ない食料を分かち合うのが常となっていた。 時折、バーサは母サラの服やソフィの服を繕いながら、涙を浮かべ「あんなことさえなければ、今頃お嬢様は……」「お館様がご存命であれば……」などと溜息をつきながら、つぶやくことがあった。そんな時、サラは「バーサ、泣かないで、私たちは幸せよ」とバーサを労るのだった。 ソフィが5歳になった夏のころ、食べたものが痛んでいたのか、一度に三人が食中毒となり寝込んでしまったことがあったが、貧乏長屋ではよく聞く話でもある。 その時は運良く、早めに症状が出たことと、週末であり、教会のミサに欠かさず出ている三人が来ないことを心配した顔馴染みのシスターが訪ねて来てくれ、適切な治療を受けることができた。そのため三人は比較的速く回復したのだが、それ以降頻繁にサラとバーサは代わる代わる体調を崩し、特に日頃から働き過ぎるサラは度々寝込むようになった。 サラが働けなくなると一挙に生活が苦しくなる。働けない、食料が買えない、満足な食事ができない、体力が戻らない、更に働けない日が増えるといった悪循環となり三人は、困窮を極めていく。 サラはすっかり痩せ細り、ベッドから出ることも大変になっていき、その半年後にはソフィとバーサを残し儚くこの世を去ってしまった。 大切なお嬢様を失ったバーサは気落ちして一気に歳をとってしまったかのようで、シワと白髪が増え、一回り小さなおばあさんになってしまった。 サラの葬儀は通っていた古い小さな教会でひっそりと執り行われたが、そこへ豪華な馬車に乗った貴族の夫婦が現れた。 まるで埋葬されたことを見越したかのように式の終わりに、それはそれは豪華な喪服に身を包んでいた。 体調が悪いのを押して列席していたバーサはその二人を見て、ぶるぶると震えたかと思うと「よくも、よくも、ここに……」とつぶやき、その場で倒れてしまった。 他の数少ない参列者も同様に「今更、何をしに来たのか」と眉を顰めて冷たい視線を送る。 ソフィは母の形見のロザリオを握りしめながら、それを漠然と見ていた。 それがボルストラップ侯爵とオクタビア夫人であり、ここで初めてソフィは自分の父という人とその妻という人に会ったのだった。 悲しみという濁流の中にいるソフィは候爵自身から父であることを告げられたが『お父様? お父様って何だろう?』とその言葉をただただ反芻していた。 そんな状態であるソフィには、ソフィと同様に哀惜の海に深く深く沈み込んだ侯爵の表情も、自然と上る口角と頰をベールとハンカチで上手く隠している侯爵夫人にも気づくことはできなかった。
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