588人が本棚に入れています
本棚に追加
「凪兄だけど」
敦のその答えにはじかれたように顔を上げる。予想外すぎる答えに狼狽える。
「凪人が、言ったのか?本当に?」
「本当だよ」
俺の異様な困惑に敦は少し考え込み、「ああ、なるほど、そういうことか」と納得したように言った。続いた敦の一言に俺はすべてを理解する。
「どうやら僕たちは二人して凪兄に利用されちゃったみたいだねえ」
*
入学当初、柚希に忘れ物を届けさせたことがある。俺とはまるで毛色の違う柚希に皆は不思議そうな顔をしていた。「アパートの隣人」なんてその時は誤魔化したっけ。まあ実際間違いでもないし、周囲も納得したようにそれ以上は言及してこなかった。
それから度々、代返や代筆を頼み、そのたびに心底嬉しそうに柚希は俺に尽くした。友人は柚希を俺の犬なんて呼んで笑っていたが、それもあながち間違ってもいなかったため訂正もしなかった。
けれど凪人だけは俺と柚希の関係に苦言を呈した。俺たちの兄のような存在である凪人のおせっかいだと軽く流していた。今思えば執拗だったようにも思う。ただ友人を心配するという理由だけではあまりに不自然だったような気がする。
周囲が「犬」と呼ぶあいつを凪人だけは「柚希」と呼んだ。
*
凪人はよく「用事がある」と言って俺たちの元を離れた。
どこに行っていたのかと尋ねても凪人は答えをはぐらかすばかりだった。「女でもできたんだろ」なんて俺たちは勝手に納得してそれ以上は聞かなかった。
食堂でいつものように食事をしていると、課題を頼んでおいた柚希が俺のもとにやってくる。課題を受け取って中身を軽く確認し「サンキュー」といつものように礼を言う。それ以降俺は一切柚希を振り返ることはしなかった。
「少し用事を思い出した」
凪人がそう言って席を立つ。そしてそれを最後にその日凪人は姿を現さなかった。
*
キャンパスから少し離れた場所にある大学図書館。道路を挟んで位置するその場所は利便が悪く必要最低限の用以外で今まで立ち入ることはしなかった。柚希は本を好む。そのくらいしか柚希の居場所の見当がつかなかった。向かった先で予想外の人物と遭遇し、少し驚く。
「どうかしたの?涼真」
きっとその言葉にはこんな所で、といった意味合いも含まれていたのだろう。
俺も少し驚いたのだ。凪人も俺と同様に図書館に通い詰めるようなタイプじゃない。
どうして気が付かなかったのだろう。
柚希が俺の背を押した後ろ手で、今まで聞いたことがないほどやさしく甘やかな凪人の声が柚希の名を呼んだ気がした。
最初のコメントを投稿しよう!