旅立ちの花

1/4
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
職場に来るのは始業の十分前。無駄に早く来るのは嫌だし、遅刻は論外だ。十分前に机に付き、朝のコーヒーを淹れたりメールをチェックしたりして、少しずつ体と頭を仕事モードに切り変えていく。特にコーヒーは欠かせない。朝はクリープを入れて。昼の休み時間後にこそ、ブラックコーヒーで。午後は眠くなるから。  ……無駄に早く来るのは私の信条に反しているが、今日ばかりは少し早く来たかった。普段は裏門から車を走らせるのだが、今日は正門から入る。本来ならば今日、正門には黒い字で「第30回 卒業式」と書かれた看板が立つはずだった。  駐車場に車を停めると、フロントガラスにひとかけらの雪が降ってくる。正しくは、雪のように軽いもの。ソメイヨシノは花弁だけだと、ほとんど色がないように見える。集合体になると、途端に色づきがわかるようになる。……今年の桜は、例年よりも20日以上早かった。だから、関東南部でも三月中旬でもう満開になっている。皮肉なことに。  地域によって、桜は卒業シーズンにかぶるところもあれば、入学のシーズンにかぶるところもある。本当はどっちの花なんだろう。よく卒業ソングの季語として桜は使われる。  門出日和だ。雲一つない青。淡い桃色の花弁。今日は春日和で温暖な気候が続くでしょうと、マスクをつけたアナウンサーが渋谷から伝えていた。私がいるのは日野市だから、同じ都内でも微妙に遠い。今日着るはずだった春物のスーツの出番がなくなってしまった。今日はいつもの、仕事用の紺のスカートと黒のブラウス。ユニクロのカーディガン。黒タイツに、黒のヒールのないストラップシューズ。  卒業式はない。あるかどうかわからない入学式の頃には、もう散ってしまっているだろう。駐車場から就職課と学生課のある学生会館に向かいながら、一枝折ってみた。おられてもなお、桜はたおやかに咲いている。いま世の中で起こっていることなんて知りませんという、美しい顔で。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!